あるがままの価値 2012.11.30

 な、なんと今日で11月も終わりで、明日から「師走」ですね。う~ん、、、月日が経つのはなんと早いことか。また年末恒例の「今年の10大ニュース」は発表すると思いますが、第一位はすでに決まっています。言うまでもなく「次男誕生」ですね。第二位は二冊目の出版といきたかったのですが来年に持ち越し。おそらく第二位についてはメルマガに書いた通りになるとは思います。今日は午前中、ツレの健康診断に付き合って天神へ。本当は付き合う必要もないはずだけど、たくちゃんが最近粉ミルクを飲まなくなったためお家で留守番できないから。ツレが健康診断に入っている間はたくちゃんを連れてお外へ。ツタヤで一冊本を買ってカフェでモーニング。幸いたくちゃんはずっと寝ていてくれました。いい気分転換にはなりました。
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 そんなわけで、今日は早朝から付き合ったので、滝行は昼過ぎに行きました。気温は12度。初日ほどは寒くなく、なんとかメニューをこなすことができたのですが、今日はふいになんだろう。滝に打たれている一瞬、感情がこみあげてきました。涙が出るまではなかったけども、胸の奥から何かがこみあげる。悲しみでもなければ、怒りでもない。おそらくは「感謝」のような感情だと思うのだけど、やっぱり感謝なのかなあ。なんだかんだと、こうやって好き勝手に生きていられるし、可愛い子どもたちと大切な家族にも囲まれ、日々、本当に幸せに暮らしています。棚田先生もしばしば言うのだけど、セラピストってのは自分の問題を解決しておかなければ、きちんとしたセッションは難しいとのこと。例えば「自分は価値がない」とのビリーフをセラピストが持っていたらどうでしょう。クライアントが「私は生きる価値がないんです」なんて言い出したら、「そうだろうな~」と同調しちゃったりして、それでセッションは終了。

 人は誰もがあるがままの自分に価値がある。生まれながらに価値がある。このことを寸分のぶれもなく確信してなければ、クライアントの攻撃にも耐えられないでしょう。この世に誰一人として価値のない人間など存在しない。スピリチュアルな意味においても、このことにぶれがなければ、クライアントに引きずられることもない。だからもし、私のクライアントが「私は生きる価値がない」と言ったとしても、私は負けない自信がある。根競べって言い方もしますが、クライアントがどんなに否定しようが私は負けない。例えばそれは「子ども」を見ても確信する。二人の子どもを授かったけど、生まれた瞬間からもう生きるエネルギーを放出して、生きるぞ、生きるぞ、って気概に満ちている。生きることに何の疑いもなく、あるがままの自分を生きている。そして誰もがそんな瞬間を経験してきたのだからこそ、人間はアプリオリに価値があるって確信できるんです。ただ、成長するにつれ、両親から汚染を受けたり、様々な条件付けにおかれたりして、例えば「条件付き価値」になったり、さらに悪くて「そもそも価値がない」なんて思い込みができたりする。

 ただ、「私には生きる価値がない」ってのは、そもそもその両親がそう思ってなければ伝わりようがない。両親もまた「私には生きる価値がない」と思いながら生きてきて、そのようなビリーフを受け渡したのもまたその両親。結局のところ「私には生きる価値がない」ってビリーフは先祖代々受け継いできたものでしかないんです。だからこそ、それが「ビリーフ」つまり「幻想」だと分かった時点で食いとめて、子どもや子孫にはそのビリーフを伝承しないようにする。それが今生きてる自分の使命だと思うのです。

 私もまだ22名しかセッションをしていない段階ではあるのですが、でも、セッションしてて最も確信するのもまたこの瞬間なんですよね。つまり「あるがまま」の価値について。目の前のクライアントは「あるがまま」で寸分違わず価値があるって心の底から確信がなければ、そもそもセッションなんてできないし、だからこそセッションをしているとその思いがまた強まるのです。世の中には「生きている価値がない」とまでは言わないにせよ、「ありのままの自分には価値がない」とか「自分は重要じゃない」と思っている人の何と多いことか。それらもまた、幼少期に植え付けられた「条件」によるのですが、例えば「成績がよければ価値がある」とか「人の前に立てば重要である」みたいな条件付けをされて、そもそもの「あるがまま」については認めようとしない。

 でもさあ、そもそも「生きてる」って素晴らしいことだと思うんです。なんて言ったらいいかわからんけど、尊いことなんですよ。生きてるって。しばしば事故や病気で危ない目にあった我が子に対して、「ただ生きているだけでいい」と願う親は多いと思いますが、それが本質。だけど、実際に満足に生きていると、その「生きているだけでいい」って本質を忘れて、成績がよくなければ、スポーツができなければ、素直でなければ、、、などと優等生としての「条件」に当てはめてしまう。最近の話ですが、私も思い出します。9月1日に次男たくちゃんが生まれて、すごく嬉しかったのだけど、多呼吸が治まらずに翌日からICUに入院。鼻から管を入れられ、狭い保育器で寝ているたくちゃん。まだ一度も母親から抱っこもされずに、一週間近くも保育器で過ごす。生まれた翌日に産科から「ICUに移動します」って聞いたとき、2秒で家を飛び出し、真剣に祈りながら車を走らせる。そんなに大した状況でもないことは頭では知っておきがら、やっぱり昨日産まれたばかりで、物理的に一人では生きる力のないたくちゃん。だけど、生きたい、生きたい、って気持ちはずんずんに伝わってくる。喜びもつかの間とはまさにそうだよな。

 ICUに移動してからは、動けるのは私だけ。面会できるのも私だけ。産科から凍らした母乳を受け取り、それをICUに手渡す。今日もまだ保育器から出ない。出ない。たった一週間足らずなのに、あんなに一日一日を長く感じたこともないですよ。だけどさ、ICUってすごく残酷なところで、奥には一年も二年もずっとそこから出られない子どもたちもいる。つまり先天的な障害を持つ子どもで、喉を切開して呼吸器を入れなければ生きていけない子ども。それでも生きている。「それでも」って言葉は不適切かもしれないけど、おそらくこの子どもは一生、機械に頼らないと生きていけない。それもわずか数年かもしれない。だけど、面会に来る両親にとってはかけがえのない我が子。機械につながれなきゃ生きていけない、本当にか弱い、そしてただ生きているだけの子ども。その両親が我が子を見るまなざしは本物。

「あなたはあるがままで価値があるのよ」

 当たり前の話だけど、その当たり前の話を、ICUで垣間見せてくれたのは、今となってはたくちゃんのおかげかもしれません。幸いたくちゃんはすぐに呼吸も落ち着き、今では普通に声を出して笑う。本当に神に感謝しかない。だけどもし、もし、もし、あの呼吸器につながれた、ただ生きているだけの赤ちゃんの親が私であっても、、、間違いなく神に感謝していると思う。それだけ「生きる」ってことは価値がある、尊いことなんです。ホントに産まれてきてくれてありがとう。生きてくれてありがとう。だからこそ、大人になった多くの人の「私には生きている価値がない」なる言葉に負けるはずないのですよ。

 セラピストになると、次の一文を案内文に添える人が多いです。それは「精神疾患等による通院・投薬歴のある方はご遠慮願います」なる文言。私も最初はそれを添えるつもりでいたけど、今はもしかしたら違う。実際に対応できるかどうかは別として、私の正直な気持ちとしては、その文章を外していきたいと思っている。どうなるかはわからないけど、最終的には「大いなる意思」にお任せして、そしてその指示に従いたいと思っています。もし私にその必要、その使命があるのなら外すだろうし、そうでなければ外さずに活動するかもしれないけど、今は正直わからない。だけどもし、私の目の前に「精神疾患等による通院・投薬歴のある方」が来られたところで、逃げずに正面から対応することは間違いないでしょう。その使命を私が持っているならば。

 そんなわけで、私がセラピストの勉強をして、最も収穫だったことは、もしかしたら「存在価値」に関する改めの確信なのかもしれません。それは私が今後活動して行く上でも、大きく太い「軸」になるのでしょう。そろそろ11月も終わり。2012年を有終の美で過ごすべく、12月は伝説の月にしたいと思います。アセンションだしね(笑)。今日はこの辺で。ありがとうございました。

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by katamich | 2012-11-30 23:39 | ■精神世界