神が自分 2012.11.28

b0002156_1426422.jpg 今日から滝行スタート。6時に滝場に入ったのですが、気温は6度。めちゃくちゃ寒いやんけ。水に足をつけた瞬間、身体全体が縮みあがる。そしてなんとか初日を終えましたが、もうかれこれ千回近くは滝に打たれてると思うのだけど、いつまでたっても慣れることがありません。今日から14日まで、そして23日から30日まで滝行して年間100日の達成となります。ま、やるって決めたからやってるだけのことで、何かいいこととがあるかと言われたらどうかな。ただ、私的には「上司」なる存在がいないので、滝行でもして自分を律しなければグダグダになってしまう可能性大。真冬に滝行やってるって言うと、精神力が強いみたいな言い方されるのだけど、実は真逆。人一倍弱いからこそ、滝行でもして自分を管理しないとですね。本当に強い人は滝行なんかしなくてもやっていけると思うのですが、私はそうじゃない。あと、滝行やってるからと言って精神性が高いとかってことでもない。数か月前、ちょっとした知人と揉め事があって、その人から滝行やってるくせになんて器が小さいんだ、みたいなこと言われたけどおっしゃる通り。開き直るわけじゃないけど、私は器が小さいです。

 じゃあ、そんな奴にコーチングとかセラピーができるのかと言われたら、実際、ニーズがあるからやってるのであって、その意味ではできるんだと思います。おそらく私なんかマーケティングも下手だし、文章もそこまで達者じゃない。量にもの言わせてるだけかも。それよりも自分にとってマイナスな表現なんかもしてしまう。明らかに損。先ほど言った揉め事に関しても、わざわざそんなことしなけりゃいいのに、ついやってしまうのも損な性格。だけど一方でこうも思うのです。私はおそらくは「スピリチュアル」のカテゴリーだと思うのですが、スピ系ってのはとかく「いい人」のように思われてしまって、だけど、ほんとにそうかよってのも正直なところ。これがさらに発展すると、スピ系、特に「悟った人」と言われる人なんかは、いい人なのは当然として、お金に興味ない、性欲がない、名誉欲がない、怒らない、不満を言わない、、、なんてレッテル貼られて、しまいには怪我しない、病気にならない、ウンコしない、なんてことまで言われかねない。スピリチュアルであるとはそんなことだと一方的にレッテル貼られて、そしてそれに応えようとすればするほど自分が苦しくなる。せっかくいいブログ、、、と言うか、キレイなことばかり言うブログ書いてるのに、実際の自分との不一致が大きくなってそのうちやめてしまう人も多い。

 その点に関して言うと、私はこのブログと実際の人物とのギャップがあまりないので、別に「いい人」と思われなくてもいいし、書いててラクです。たまにめっちゃ「いい人」っぽいこと書くともあって、それはそれで真実。自分にウソついてない。その一方で、人をdisったり、やたらと噛みついたりして、およそ「スピ系」とは思えないような言動をとることもある。それもまた自分であり真実。今回、セラピスト養成講座に3か月ほど参加したのですが、最後の方で自分自身のことを「スピ系」って言うと、ほとんどの人から「え~!」って言われました。バリバリのビジネス系、それも理系、左脳系のクールなキャラと思われてたようです。なるほど。今までのパターンからしてよくあること。さらには嫌味キャラなんてことも言われて、それもまたその通り。だけど、実際の話で言うと、会社辞めて独立してから、何か確たる戦略やスキルがあって今までやってきたというより、自分なりに悟った「宇宙の法則」を証明することで何とかやってきていることの方が大きい。「引き寄せの法則」でもいいけど、自分を支えてきたのは、明らかにスピ系にカテゴライズされる何かでしょう。最近でこそ、ビジネス戦略なんかにも興味を持つようになってはいますが、私の生き方はまるまるスピリチュアルであって、その中の生活習慣として滝行が位置づけられてるもの。

 私は「いい人」ぶるのが嫌いだと言いましたが、だけど、こんな事実もあるのです。それは滝行における約束事。かなり前にやったことだけど、もし私が人道を踏み外すような真似をし始めたら、お構いなく命を持って行ってくれと滝に誓ったのです。それはちょうど独立当初のことで、スピリチュアルな何かを含めて、自分自身がこれから先、なんだかとんでもない力を身に付けるような気がしていて、だけど、その力に甘んじて人道を踏み外すようなことがあれば、私は生きている価値がないと誓ったのです。それは一つの「決断」であり、もし本当に踏み外したらそれは死ぬってことなので、子どももまだ小さいのでそれはできない。ただ、その一方で死なない限り何やってもいいって気持ちもある。そして死んだら死んだでそれもまた運命。だったら、自分に制限をかけることなく、好きなことをどんどんやってしまおうって思うのです。まだまだ制限かかってる部分もありますが、それでも年々、「自由」になっている実感はあります。これから先、おそらくお金に困ることもないだろうし、なんだかんだと家族を養いながら好き勝手生きていくんだと思います。来年のアイルランド行きもなんとか許可を頂いた雰囲気ではあるし。

 そんな感じでこれからも好き勝手やっていきますが、おそらく根底は「いい人」であれど、あまり気を使わずに言いたいこと言って自分らしく生きていくんでしょう。そう言えば思い出した。先日フェイスブックに「今度のセッションでは神と出会う」とか書いてたのですが、そこに「神との出会いに祝福を♪」とかコメントした人がいたんです。それはそれで「ありがとうございます」とか返事しとけばいいのに、こういうフワッとした意味のないコメントにイラッとするタイプなので、「神とはインスピレーションのこと」って返事したら、同じ人からコメント返し。「自分が神そのものですよね♪」って。また、こんなどっかから借りてきた確信もないフワッとしたコメントするもんだから、またまたイラッとして、「違います。神とは遍在です」って返事したら、それでストップ。私は何も間違ったこと言ってないのですが、そのやり取りを見ていた友人女性から、「笑った」と言われました。そう。私のキャラをリアルに知っていたら、それは非常に笑えるやり取りではあるのですが、そうじゃない人がこのやり取りを見たら、私って人間は随分と高圧的で空気を読まないデリカシーのない人間だと思われるでしょう。ま、実際その通りではあるのですが、だけど、ここで、「ほんとですよね~♪自分が神そのものなんですよね~♪神との出会いに祝福で~す♪」みたいなこと言ったら、自分にウソつくことになるじゃないですか。もっとも、相手にもよりますが、そういうフワッとしたやり取りがそもそもから嫌いなので、ときには噛みつきたくなることもあるんです。

 ちなみにこの話の真意をもっと詳しく説明すると、まず、私が言いたかったのは、セラピーのセッション中かなんかで、ときには自分の手に負えない事態が発生することってあるじゃないですか。そんなとき、まさに自分の知識や経験を超えた「何か」にお任せするしかなくなって、その「何か」のことを「神」って表現したのです。だけど、「神」って言うと、なんとなく擬人的な対象物のようなニュアンスがあるので、私はそれをインスピレーションと言い換えました。「出会い」って表現自体が擬人的ですし。それに対して「自分が神そのもの」なんて返事されたら、ますます「分かってない感」があふれて、思わず「違います」って返事をしてしまった。「神」ってのはそもそも自分を超えた「何か」であって、もちろん自分も含むところかもしれないけど、少なくとも「そのもの」ではない。言うなれば、「自分が神」ではなく、「神が自分」なのです。

 なので、この場合、「自分が神そのものですよね♪」ではなく「神そのものが自分ですよね♪」であればすごい納得したのですが、この二つは似ているようでいてまったく違う。些細なことだけど、この些細な部分に真実がある。確かに世間では言われます。「自分が神だ」とか。ま、言いたいこともわかるのですが、真理を悟った人の言葉と、単に借り物として使っただけの言葉と、それはわかるんです。なので文脈とか見て、悟った人が「自分が神だ」と言えば、あくまでその文脈上、ピッタリくることもあるでしょうが、私の中でピッタリこないってことは、やはり借り物なんです。だけどここで「『自分が神』ではなく『神が自分』です」って言ったところで訳わかんないだろうから、ちょっと言い換えて「神とは遍在です」って表現したのです。

 この「遍在」って表現もなかなか分かりにくいとは思いますが、つまり「遍く在る」ってことで、「神」はこの宇宙にそのまま存在してるもの。これを「量子」とかまたは「空(くう)」なんて言い方もできるでしょうが、その意味では「自分」もまた量子であり空(くう)なわけで、本来は一切の境界のない「ひとつ」がこの宇宙の真実なのです。あかちゃん、うちには3か月の乳児(たくちゃん)がいますけど、最近、どうやらこの世に「お母さん」なる存在があることを知り始めている。産まれたばかりは、お母さんもお父さんも先生も、いや、人間とか動物って概念もなく、ただ「ひとつ」の中に生きているはずだけど、脳が発達するにつれ言語を伴わずとも、感覚的に「分化」を知ろうとしている。だけどまだまだたくちゃんの中では限りなく「ひとつ」で生きているだけど、世の中が本格的に「分化(分節化)」し始めるのは、言語を習得し始めてから。その「分化」のスタートが「神(遍在)」から「自分」を切り離すところからでしょう。

 そもそも「自分」なんてものは存在しません。真実の世界には。「自分」とは言わば概念であって幻想です。脳(大脳新皮質)が作りだした「3次元で生きるための便利ツール」でしかありません。もちろん私たちはこの「3次元」に産み落とされたのだから、3次元のルールの元で生きる宿命にはあります。高々80年くらいのものですが、とりあえずここは3次元。なので「自分」という枠組みでの活動を余儀なくされてるわけですが、だけど、それが悩みや苦しみを作りだしているのもまた事実。人はなぜ「自殺」するのか。年間三万人も。せっかく産まれてきて、どうせいつかは死ぬ運命なのに、なぜにその命を縮めようとするのか。それは悩みや苦しみが大きいからでしょうが、それらを滅するには「自分」という概念を捨てること、つまり「死」が最も手っ取り早いことを経験的に知っているから。「自分」がない赤ちゃんの頃は自殺なんて思いもしません。「自分」がないのだから悩みも苦しみもない。あのときはラクだったなあ。だけどあの頃には戻れないから、もう少し前に戻るか。それが「死」です。

 だけどどうでしょう。そもそも「自分」なんてものなど存在しないって事実を知ってしまえば。「自分」が幻想だとすれば、それに付随する悩みや苦しみもまた幻想。ビリーフチェンジなんて最近言ってますが、人間にとって最も根源にあるビリーフが「自分」という存在への思い込みでしょう。私が今、「自分なんて存在しない」と言っても、それを頭でわかる人はほとんどいないでしょう。経験しなければわからないことかもしれない。いや、だっているじゃん、今、ここに、「自分」が。いね~よ、そんなの。だから「神」の話してても、真っ先に「自分が神」なんて表現をしてしまう。そんなに「自分」って言葉を使いたければ、ちょっと譲歩して「神が自分」ならなんとか理解できる。だけど本当に「神」の存在をリアルに感じるのは、まさに「自分」がなくなったとき。な~んだ、自分って幻想だったんだ。それが人間としての最大のビリーフチェンジです。

 その瞬間に遍在する「神」がまさに「今ここ」にあることを知り、とてつもない「喜び」の世界と一体化することができるのです。今、とりあえず3次元レベルでのビリーフチェンジの手法はマスターしたので、あとは磨きをかけるだけですが、最終的には「神」を知るビリーフチェンジが可能かに興味があります。ただ、古今東西のマスター(覚者)たちがずっと言い続けてるのもこれであって、結局、誰も成功していない。もちろん「神」を知る人は世の中にたくさんいるのだろうけど、「神」を知るってほとんど偶然のようなもので、例えばビリーフチェンジセラピーのように、この場ですぐに効果が出るものではない。そこは難しいとこですよね。だけど、まあ、いつかはそんなことを再現できる手法を手にすることもできるだろうから、今は3次元レベルでのビリーフチェンジにハマっておこうかと思います。ちなみにどうですか。こんな文章ってかなり「スピリチュアル」でしょう。天使も幽霊も出てきませんが、この世の真実、宇宙の法則への探求こそが私にとっての「スピリチュアル」なのです。別に「いい人」であることが、スピリチュアルであることじゃありませんから。

 そんわけで、いつも噛みつくわたしですが、それはそれで自分らしいと思ってますので、これからも「いい人」にならないよう好き勝手我がままに生きていこうと思います。ありがとうございました。

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by katamich | 2012-11-28 23:39 | ■精神世界