「神」につながること 2012.10.9

 木曜日からの怒涛の日々、、、でもないけど、新たな旅立ちに向けて、気分がますますブルーになっています。いつもの「旅立ち前のブルー」ってやつですが、今回は10日間も子どもたちの顔が見れないのが寂しくて特にブルー。なので用事のある11日木曜日は早朝に出て、帰りの21日日曜日は夜8時の飛行機で帰って、少しでも長く子どもたちといたいのであります。最近は寝るとき布団でちびQといろいろお話するのが日課。それも10日間はお預けですが、すべては自分で好きでやってること。家族のためには少しでも多くのものを持って帰りたいと思います。今日は月末の商工会議所の資料のことで先方と少しやりとりをして無事完了。これで心おきなく旅に出れるのですが、その前日の東京セミナー(引き寄せ)の資料は帰国してから一気に作る予定。だけど着地ははっきりしています。

 それは「心のコリ」をほぐすことと書いてますが、その本質は「ビリーフ・チェンジ」であり、さらにその本質は「コアにつながること」です。この場合の「コア」とは「本当の自分」と言い換えてもいいですが、人間は誰もがありのままに価値ある存在だ、、、という「当たり前の事実」に単に「気が付く」だけでいい。この瞬間に「人生」は突然好転し始めます。

 私の身内の話で恐縮ですが、以前も書いたことあると思いますが、私の兄の話。兄はそれはもう、勉強がよくできてそれもハンパなかった。全国模試で4回連続全国一番を取るくらいだから、京大に入学した最初の授業で出席を取られたとき、クラスの多くがその名前を聞いて後から顔を見に来たほど。しかし、兄の栄光は18歳の大学入学時で一時ストップ。物心付いたときから「勉強がよくできる自分は価値ある存在だ」と思い込んでいる半面、「勉強」に逃げ込んでいる雰囲気もありました。しかし京大生などは全員勉強ができるわけで、大学に入ると「勉強ができる」は特に珍しいことではなくなりました。ではどこで「価値」を付けるかと言うと、それはスポーツだったり、ルックスだったり、コミュ力だったり、行動力だったりするのでしょうが、兄はそのどれも欠如していました。

 そこで私の出番。勉強なんてそんなに価値あることじゃないんだから、顔見るたびに、バイトしろ!運動しろ!サークルに入れ!コンパに行け!インドに行け!と口酸っぱく言うのです。それは勉強に逃げ込んでいる兄に対するいら立ちであって、最初から言うことを聞かないことなど分かり切っています。すると兄はどうなるか。兄の潜在意識はあくまで「現状」を守るため、私にそんなことを言わせないように働きます。つまり私は兄に「変化」を促すのですが、兄は無意識レベルから変化を頑なに拒み、動かないぞ、動かないぞ、、、と徹底して現状を守り始めるのです。

 その結果、兄は信じられないくらいに食事を不摂生し、体重はどんどん増加します。大学の4年間は独り暮らしをしてて、朝はトーストにマヨネーズとチーズを乗せたのを二枚。昼は学食で冷やし中華を二杯。夜はサトウのご飯にレトルトカレー。夜食はポテトチップスとコーラ。この食事パターンをほぼ毎日繰り返すのです。夏に実家に帰って来たときビックリしました。ちょっと病的なほど太っているのです。見かねた母が食生活を注意すると、「欲しいということは、身体が必要としてるからなんだよ!」と得意の屁理屈で切り返します。それもなぜか大声で。するとどうなるか。肝臓を壊して入院。おまけに骨がもろくなってちょっとこけただけでヒザを骨折してさらに入院。さらにそのヒザからばい菌が入ってさらに入院。つごう半年から一年近く入院してたと思います。

 これはまさに兄の「潜在意識」が「動かない」を具現化した結果に他なりません。肝臓を壊すのも、骨折するのも、さらにばい菌が入るのも、、、すべては「潜在意識」が引き寄せた結果なのです。入院してしまっては、私も兄にいろいろ言うことはできません。つまり兄は「動かない」という願望を見事に実現してしまったのです。しかし、意識ではどうか。つまり内心ではどうかと言うと、周りの人たちや私のように動きたいのです。その入院を機にさすがに不摂生は辞めるようになりましたが、相変わらず「動かない」は実現し続けています。私が再び「インドに行け!」と言うと、「オレだって行きたいよ・・・(だけどヒザが悪いから行けない)」と言い返して、私の言葉を封じます。そしてインドの悪口を百ほど並べます。私は別にインドにこだわってたわけじゃなく、まずはインドにでも行って習慣から常識から解体して欲しいと願っていたのです。そしたら少しは動けるようになるかも。それは兄に対する弟からの願いでした。

 だけど兄の生活は根本的には変わらず、そのままストレートに大学院に進みました。博士号を取るのにちょっと手間取ったようではありますが、それでも何とか博士号を取り一人前の研究者になったと思いきや、、、肝心の「席」がないのです。つまり助手にせよ講師にせよ、当然、就職枠があって、そのわずかな枠を学位取得者が取りあっているのが現状。そのためには人間関係なども駆使する必要があるのですが、兄はそこに入れませんでした。だけどどっか就職する必要があるので、アインシュタインがそうだったように、公務員にでもなろうと国家一種試験を受けました。すると優秀な成績で一次はパス。次は各省庁の面接となるのですが、その時点ですべて決まっていました。大学や大学院ともなると、何らかの人間関係があって当たり前。研究室の推薦、サークルの先輩、その他諸々。兄はあらゆる人間関係から逃げていたので、すでに入る場所はありませんでした。その現状を目の当たりにした兄は、実家に戻って部屋に入るやいなやカバンを投げ「理不尽だ!」と大暴れしたそうです。

 今までずっと「勉強がよくできる自分は価値ある存在だ」という信念の元で生きて来て、それを証明するには入院だって厭わなかった潜在意識。しかし最後は自分が唯一信仰してきた「勉強」からも裏切られます。残された道は自己満足な「勉強」に逃げ込んで、そのままニートとして一生を送ること。それはそれで自分の「価値観(信仰)」を守ることなので、潜在意識もそれを要求していたでしょう。ここでもし「とりあえず」という言葉が出ていたら、兄はそちらの道に進んでいたかもしれない。つまり、とりあえず様子を見ながら(ニートしながら)、自分の道を見つけていきたい。それはそれでまっとうな理由に聞こえるし、そう言われたら親も反対しなかったでしょう。そしてもし、そのまま「とりあえず」を採用していたら、10年経った今もきっとニートのままのような気がします。

b0002156_1312693.jpg しかし兄はそうしなかった。まさに人生の分岐点。大暴れしたその翌日、父親に「最初からやり直す」ことを伝えます。つまり物心付いてから30近くなるまで「勉強」だけが唯一の価値だったその「信仰」を手放し、何もない状態から「一人の個人」として出発する決意をしたのです。そのとき、父は兄の人生において最も価値あるアドバイスをし、兄はその通りに従うことにしました。その後、驚くほどに順調に進み、体重も見る見るうちに減り、以前はゆで卵にマッチ棒を刺したような体形だったのが、ちょっとショーン・コネリー風でええ感じになってるんです。うちのツレも以前の「マッチ棒ゆで卵」時代の兄を見たことあるのでビックリしていました。そして職場でもなくてはならない存在となり、結婚もして今は二児の父親です。すべてがええ感じなのです。兄は兄なりに成功しています。

 このようになったターニングポイントは言うまでもなく「大暴れした翌日」のことでしょう。つまり今までずっとしがみついていた「勉強」という「価値」を手放したこと。その瞬間に人生が大きく好転し始めたのです。だからこそ人生は「一瞬」で変わるのです。

 これは兄に限ったことではなく、多くの人もまた古くなった賞味期限の「価値」にしがみついてはいないでしょうか。兄の場合は「勉強」なのでわかりやすいですが、私たちは大なり小なり、何らかの「価値」にしがみついています。例えば「病気」もそう。何かと病気になりがちな人は、「病気になれば認めてもらえる」という「価値」にしがみついている可能性があります。ある年配の女性はリウマチで寝込んでいたのですが、本人はつらいつらいと言いながら、医者の言うことを一切聞こうとしませんでした。言うことを聞けば、少なくとも今よりは楽になるはずが、なぜか耳を貸さないのです。その年配の女性の無意識の意図は、病気によって自分は家族の中心でいられることにあったのです。もし幼少期に何らかの原因があるとすれば、普段は仕事や家事で構ってもらえなかった母親が、自分が風邪ひいたりするときだけちゃんと看ていてくれる、、、などの経験があったのかもしれません。それによって「病気になれば認められる」というビリーフを持つに至り、治りにくい病気を引き寄せるのです。

 片付のできない人は、幼少期に、部屋を散らかしたときだけ母親が一緒に片づけてくれて、それが幼心になぜか楽しい思い出として残っていた。だから、部屋を散らかした状態であれば、誰かが構ってくれて心が満たされるのではないか。あと一歩のところで結婚を逃してしまう人の場合、もしかしたら両親の仲が良くなく、結婚すると不幸になるなどの思い込みがあるのではないか。他にも事例はいくらでもあると思いますが、いずれにしても、今の人生がどこか思い通りでないとすれば、それは古くなった賞味期限の「価値」にしがみついているのかもしれません。そしてその「価値」を作った原因は二つしかありません。一つが「生命」であり、もう一つが「関心」です。特に人間の場合、後者の「関心」に対する欲求が思いのほか強く、これは「自己重要感」と言い換えることもできます。

 「病気になれば認められる」、「部屋を散らかせば構ってもらえる」、「人に迷惑をかければ見てもらえる」、「失恋すれば誰かに慰めてもらえる」など。「お金を稼げば注目してもらえる」などは逆に「お金をなくせばもっと注目してもらえる」などと表裏であり、その典型が矢沢永吉なのかもしれません。いずれにせよ自分への「関心(自己重要感)」については、すべてが「~であれば」という条件付きなのです。「勉強を頑張れば注目される」と物心付いたときから兄はずっと思い続けていたのですが、その「勉強」に対する「信仰」は現実によって打ち砕かれます。もちろんそのまま「とりあえず」と信仰を捨てずにいる選択肢はあっただろうけど、兄はそれを選ばなかった。めちゃくちゃ勇気の要ることだけど、古くなった賞味期限の「価値(信仰)」を手放すことで人生は一気に好転し始めたのです。

 「~であれば」という条件付けをすべて捨てて何が残るのか。それは「存在」という「価値」が残るだけであり、そしてその「価値」はいわゆる「条件」とはまったく別の「ありのままの絶対的価値」であり、いかなることがあっても否定されるものじゃないのです。それは「神」と言えるのかもしれませんが、私の中に「神」がいるとはまさにこのこと。そして自分という「存在」に対する絶対的価値、つまり「神」につながることで、人生は一気に好転し始めるのです。ここでの「神」とはもちろん宗教的依存の対象としての神ではありません。誰もが生まれながらに持つ、ありのままの絶対的な価値。これが「神」なのです。そして「神」に出会うには、どこかでそれまでしがみついてきたいわゆる「価値・信仰」を手放す必要があるのです。今回の10日間の東京とシンガポール・マレーシアでは、そんなこともじっくり考えながら、古くなった「信仰」に苦しめられている人たちを、少しでも自由へと解放できる何かを見つけてきたいと思っています。そんなわけで、書いてたらブルーも吹っ飛んだので、とにかく楽しい日々を過ごせればと思います。ありがとうございました。

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