宇宙となかよし

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Qと申します。読んで頂いた皆さんが笑顔になり、ますますパワーアップできるようなブログを目指しています。

おっけー、おっけー 2012.4.25

 今日は夜、鳥居祐一さんの出版記念講演パーティに行ってきました。先日出された「人脈塾」について、福岡でありながら100名を超す大盛況。一部は鳥居さんの基調講演、二部は仲間たちの紹介。その後パーティ、二次会って流れでした。二部では私も5分ばかりしゃべられて頂きました。鳥居さんとのお付き合いはなんだかんだと、4~5年にはなります。で、鳥居さんとの印象的なエピソードをお話したのですが、さすがに5分ではしゃべり足りない! 詰め込んでしゃべったので、自分的には「やっちまった~」と思ってたのですが、その後のパーティーで多くの人から「面白かった!」とか「衝撃を受けた!」みたいなお声を頂き、あれはあれでよかったのかな~といい気になりました。5分で心をつかむことには成功。ただ、私のスピーチって完全に好き嫌いが分かれるようで、好きな人は熱狂しますが、嫌いな人は冷ややかですからね。でも、それでいいと思っています。この話は「公式ブログ」にでも改めて書こうと思います。

 今日から「写経」がスタートしました。108枚が一応のゴール。出張や旅行で毎日は書けないと思いますが、8月半ばには終了したいと思います。そう言えばその頃って、ものすごいイベントが予定されてるのでちょうどグッドタイミング。そのイベントについてはその頃に発表できると思います。で、今日は3時55分に起床して滝行。これからしばらくは「行」に関係なく、週2回(水土)に滝行に行こうと思ってます。気温もかなり緩み、今からただ気持ちのいい季節です。滝行の醍醐味は真冬なんですが、それ以外の季節はいろいろチャレンジの時期でもあります。以前は21日行で、般若心経21巻とかやりましたが、それだと3~40分かかるんですよね。それこそ滝から出たらもうフラフラ。いろいろやってみようと思います。

 そして5時過ぎには家に着き、いよいよ写経です。ちょっと高価なお香を焚き、般若心経を一巻唱えます。精神統一して般若心経を写しに入ります。お手本の上に専用の和紙を重ねて、筆ペンでなぞるように書くのですが、それでも上手には書けません。正直、めちゃくちゃです。元々字には自信がないし、ましてや先の柔らかい筆ペンなどほとんど触りません。だけど、これで目標ができました。筆ペンを卒業して、普通の筆と墨汁で書く。墨汁でなく墨を擦る。そして手本をなぞらず書く。最後には何も見ずに書く。その後はひたすら字を磨きあげるだけ。108枚ではまず間に合わないでしょうが、とりあえず108枚でどれだけ成長するかは自分でも楽しみです。実際、書いているととても楽しく集中できたので、誰にも邪魔されない早朝に、これは一種の瞑想効果がありそうですね。

 これまで般若心経は何度も何度も唱えてるし、間違いなく一万回以上は唱えてると思うのですが、字で書くのは筆ペンならず普通のボールペンでさえなく初めての経験。それだけに般若心経の意味を一つ一つ確認することができます。般若心経の解説書などは、中村元など仏教哲学者に始まり、笑い飯に至るまで、数えきれないほどありますが、私は私でいつか書ければと思っています。実際、写経していると、いろんなインスピレーションがわいてくるのも不思議な感覚でした。般若心経は大乗仏教の経典なので、元々はサンスクリット語で書かれてたものが漢訳され、私たち日本人はそれを読んでいるわけです。サンスクリット語の般若心経もCDで聞いているのですが、確かに訳されたものとは音がまったく違います。だけど、ご存知のように、ある個所は訳せずサンスクリット語がほぼそのまま唱えられています。それが最後の、

「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」

の部分。これは陀羅尼、つまり翻訳不可能な呪文であり、その「音」そのものに何らかの力があると言われます。実際、般若心経全文を覚えておらずとも、いざと言うときはこの最後の呪文だけ唱えてもいいと言われます。では、この部分はどんな意味かと言うと、それこそ様々です。一番ポピュラーなのは、

「行け行け、彼岸に向けて、みんなで行こう、幸いあれ」

みたいな感じでしょうか。超訳で知られる柳澤桂子氏の訳では、

「行くものよ 行くものよ 彼岸に行くものよ、さとりよ幸あれ」


となっており、仏教学者のひろさちや氏だと、

「わかった わかった ほとけの心 すっかりわかった ほとけの心 ほとけさまありがとう」

となっています。瀬戸内寂聴氏は、

「往け 往け 彼の岸へ いざともに渡らん 幸いなるかな」

と訳しています。私もまあ、そんな意味だろうとあまり深く考えずにいたのですが、写経をしていると突然、次の訳が浮かんできたのです。

「OK OK ぜんぜんOK そのままOK ありがとう 絶対大丈夫」

 正確に言うと、「羯諦(ぎゃーてい)」が「おっけー」にいきなり聞こえてきたのです。音韻的にもピッタリだし。なので、最後のこの部分は、私の訳をそのまま読んでもリズムに合います。試しに読んでみます。

「ぎゃーてい ぎゃーてい はーらーぎゃーてい はらそうぎゃーてい ぼうじそわか はんにゃしんぎょう」
↓  ↓
「おっけー おっけー ぜんぜんおっけー そのままおっけー ありがとう ぜったいだいじょうぶ」


 後半は音よりも意味を重視した訳になってますが、リズムは合いますよね。そもそもよく見る訳の「行け 行け」ってのがどうも違和感あってですね。だって、人はすでに悟っているのだから、ただそのことに気が付けばいいだけ。にもかかわらず、「行け 行け」ってどこに行くねん、、、って感じですよ。別にどこにも行かんでいいんちゃう、と思ってしまうのです。人はいつだって今ここにしか存在してなく、どこに行こうにも行くとこないじゃないですか。

 「行け」って言葉自体が、なんか自己否定的なニュアンスにも受け取れるし、それならゴールはどこよって感じ。悟りなんて、求めてる以上、到達しようがない。どんなに瞑想しても、滝行しても、身体痛めつけても、ドラッグでヘロヘロしても、「悟り」なる異世界を求めている以上、いつまでも幻を追っかけてるだけ。

 「どうしたら悟れますか」とか聞かれても、どうしようもない。それは「どうしたら自分でいられますか」とか「どうしたら生きることできますか」とかと同じレベル。だって、自分はすでに自分だし、自分以外になったこともなければ、これからも絶対になれない。生きることにしても、そもそも死んでないじゃん。「悟り」なんて、そんな当たり前のレベルのことなんだけど、それが「当たり前」と気が付けないところに厄介な問題があるのかな。ま、確かに私たちは常に「記憶」の反映の中で生きてますから、それだけ発達した脳を持つことの宿命のようなものかもしれません。私たちは常に「今」にしか生きていないのに、とかく「過去」を思い悩んだり後悔したり。そしてその「過去」の記憶を「現在」や「未来」へと反映してしまう。だけど、言うまでもなく、そんな記憶で作られた世界などリアルでもなんでもない。だって、いかようにでも書きかえられるものだから。

 「おっけー、おっけー」ってのは、今がどうであろうが常にOKのこと。金があろうがなかろうが、それはそれでOK。健康が良かろうが、悪かろうがそれもまたOK。常にOK。絶対大丈夫。と言うか、この世に大丈夫じゃない状態など絶対にない。目の前の現象をどう解釈するかの違いがあるだけで、大本は大丈夫だしありのまま。そのことに気が付ければ、もう、ありがとうしかないんですよね。

 何度も言ってるように、2005年にインドに行ったとき、暇に任せてラダックの丘の上(ナムギャルツェモ)にて般若心経を1,000巻唱える、その820巻目に突然の神秘体験がありました。つまり「大丈夫」だってことを知った時かな。目の前の世界が白黒からカラーに変わるような、そんな衝撃でした。それももしかしたら般若心経の「おっけー、おっけー」に共鳴したからちゃうかと、今日ふと思いました。きっとそうだと思います。

 写経一日目ですが、すごく大切な気づきを頂いたようです。やっぱり、やってみるもんすね。そんなわけで。そうそう、下の写真ですが、今日のパーティでゲストとして特別に頂いたプレゼント。天神でスプレーアートやってる方が、パフォーマンスに来られて貰ったのです。スプレーだけでこれを描いたそうで、なんだか吸い込まれるような絵です。
b0002156_17491484.jpg

 写経一日目にして、今日はお酒もたくさん飲んで、よくわからんけど、いい日だったです。おっけーです。ありがとうございました。

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【世界】目標を確実に達成する行動強化コーチング
by katamich | 2012-04-25 23:39 | ■精神世界
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