オレを知る手掛かり 2012.2.7

 今朝は4時半に目覚ましをかけたけど聞こえずストップ。だけど5時にはしっかり起きて滝に行ってきました。今日で4日目ですので、21日の満行までまだまだですが、心なしか春を感じることもあり。日の出時刻は確実に早くなっているし、どことなく新しい季節の息吹を実感する今日この頃です。それにしても「朝」ってのは、本当に贅沢な時間です。今年になって滝行をしてる時もしてない時も、早起きが完全に習慣になってるのですが、もしもこの日の出前の朝の時間を知らないでいるならば、人生の喜びの8割は損してると言って過言じゃない。これはマジな話です。

 とにかく2012年からは自分に妥協しない、言い訳しないと決めてスタートしましたので、この寝坊助の私が「朝」の素晴らしさを再発見できてハッピーなわけです。その意味で私は、ちょっとは「変わった」のかもしれませんが、今日もちょっと「変化」について書きたいと思います。

 これまで何度も「現状維持」と「変化」について書いてきたと思うのですが、実はある絶対的な真理がここにあるのも事実。その真理とは、

「変わろうが変わるまいが、オレはオレ」

ってこと。この真理に立脚すると、実のところ「変化」がまったく怖くなくなります。一年に一回くらいのペースで、高校の同級生と東京で飲むことがあるのですが、その時、決まって「相変わらずやな」と言われます。いやいや、私は随分変わりましたよ。具体的には割愛しますが、少なくともこのブログを書き始めてからも、随分変わったはずです。サラリーマンからフリーとなり、それだけでも変わったと言えるじゃないですか。ま、見た目も経年の通りに変わったとは思いますが、自然の変化であれ、努力した結果の変化であれ、私は随分変わったはずです。

 だけど、高校の同級生に会うと「相変わらず」と言われるのです。そう言えば、先日、実家に帰ったときも母親から言われました。「あんた、小さい頃から何も変わってないな」、と。いやいや、とんでもない。小さい頃から見たら随分変わってるはずじゃないですか。身長や体重もそうだし、当然、見た目だって考え方だった変わったはずです。だけど、昔の人から見ると、決まって「変わってない」と言われるのです。

 その一方で、「Qさんは変わってしまった・・・」と残念そうに言われたこともしばしば。前はもっとノリがよかった、などと。いや~、今もノリは悪くないはずなんですけど、変わったことと言えば、セミナーやツアーなどで若干の費用を頂くようになったことでしょうか。前はセミナーじゃなくてオフ会だったし、ツアーも完全に実費で行っていました。だけど、状況が変わるとやり方も変えていなくちゃならないこともあり。本当のこと言うと、無料でツアーとか企画していると、完全に「内輪」になってしまい、本当に参加したいと思っている多くの人に開かれなくなるし、また、一般的に「無料=価値がない」と考える風潮もあり、やるからにはやっぱり満足して欲しい。その辺のことを考えて、セミナー開始後は有料化するようにしたわけです。それを「変わったしまった・・・」と言われちゃうのも寂しいものではありますが。

 だけど、自分で思う限りにおいては、今の方が昔よりもノリはいいはずです。各地でゲリラ的にオフ会やランチ会もしていますし、電話だって基本的にいつでもウェルカム。ただ、唐突に開かれるようになったけど、それは私の時間の都合でして。なんだか話がそれてきたので、元に戻します。

 親や昔の友達は、いつになっても私のことを「変わってない」と言い、一方で、比較的最近の人たちからは、時々、「変わってしまった」と言われることがある。この違いはどこなのか。それは簡単に言えば、見ている場所が違う。昔の人たちは、より私の本質的な部分、言い換えると「本当の自分」に近いところを見ているのに対し、「変わった」と言われる人たちは、表面的な部分の自分しか見ていない。それはいい悪いじゃなくて、付き合いの長さに比例するものだろうから、仕方ないことではあります。

 その一方で、自分は自分をどう見ているか。今までいろんな人と会ってきて、また、いろんな本などを読んできて、少なからず成功者と呼ばれる人の話に触れることもありました。例えば貧しい時代から一生懸命努力してきて、その結果、地位や財産を手にし、望ましい状況を実現することができた。確かに状況は変わった。だけど、その多くの方はこう言うのです。

「いや、オレ自身は何も変わっちゃいないんだけど・・・」

 これ、すごくよくわかります。私自身も確かに、学生、ニート、フリーター、契約社員、正社員、フリーランスと移行してきて、今では確かに成長してきた実感はある。だけど、やっぱり自分自身は何も変わっちゃいないんですよね。それがどこかはわかりません。だけど、基本的に物心ついた時から変わった感がほとんどないのです。

 前も書いたと思いますが、私は小学一年の時、「改造人間になりたい」と友達に言いました。その友達は、「そんなのマンガの世界だよ」と揶揄してきました。今風に言えば、disられたのです。

 じゃあ、今はどうか。いや~、今でもなりたいと思ってるのですよ、改造人間に。どうすれば自分を改造して、願望を実現できるのか。もし可能であれば、脳に電極でも差し込んで、一気に変えて欲しいもの。NLPなどはそれを示唆する雰囲気があったからこそ飛びついた。だけど実際に勉強してみると、そんな簡単なことじゃないし、NLPだってさほど特殊なことを言ってるのでもない。やっぱりある程度は地道にやっていくしかないってのが結論となったのです。

 その意味で、「改造人間になりたい」ってことについては進歩のない私です。だけど、その思いが強かったからこそ、マンガだとdisられても改造人間の夢を捨てない。だからこそ今、いわゆる「改造人間」になる方法を研究し、あちこちでしゃべらせてもらってるのかもしれません。

 昔のことって当然だけど、何もかも覚えてるわけじゃないですよね。だけど、印象的なことだけはすごく覚えているし忘れようがない。それってなぜなんでしょうかね。なぜ特定のことだけは忘れずに覚えているものか。それはきっと自分に関係あるから、もっと言えば、自分の本質に関係あるから覚えているのでしょう。

 改造人間の話は明確に覚えています。小学一年のある日、天啓がやってきたのです。そうだ、オレは改造人間になろう、と。それを誰かに言いたくてたまりません。そしてよく遊んでいた友達に、「実は秘密があるんだ」と打ち明けます。当然、その友達は聞きたがります。すごい話なので私もかなりもったいぶり、そして打ち明けます。どうだと言わんばかりに。だけど、その友達の反応は悪く「マンガだ」とバカにしてきたのです。忘れね~よ、オレは。そんな細かいことをよく覚えてるな~と思われるでしょうが、それは私の本質に関わることだったからこその話。

 じゃあ、反対に聞きます。これ読んでる皆さんに。物心ついてから、どうでもいいと思いながら、覚えていることってありませんか。経験、言葉、光景など、実にくだらないものも含めてかなりあるはずです。それってなぜ忘れないのか。それは関係あるからじゃないでしょうか。

 もう一つ思い出した。昔、「快傑ズバット!」って特撮ヒーローものがありました。知ってる人いたら、かなりレア。登場するときにセリフくらいは何となく覚えているものの、ストーリーとかは何一つ覚えていません。登場人物も覚えていません。だけど、その最終回だけはずっと忘れられない。なんと主人公である「ズバット」が崖から落ちて死んでしまうのです。主人公が死ぬ。当時の私にはあり得ません。

 初代ウルトラマンがゼットンに倒された時も、長兄ゾフィーが生まれ故郷に連れて帰りましたよね。だけど、ズバットは本当に死んでしまったのです。それを見た親父のセリフが「ズバット死んだから最終回や」と。あ~、このしょうもない記憶力をもっと有効活用したいものだ。。。

 それはともかくとして、絶対的な存在である主人公が死ぬ。当時の私にとってショッキングなことでした。そこで価値観が崩壊。つまり「絶対なんてものはない」と悟ったのです。この世は何が起こるかわからないし、自分だっていつ死ぬかわからない。当時の私(たぶん幼稚園か低学年)がそこまで考えていたかは知りませんが、でも、ズバットが崖から落ちるシーンだけは30年以上経っても忘れられないのです。

 その時、おそらく「死」について強烈に意識したのではないか。死ぬと人はどうなるのだろうか。新倉イワオの「あなたの知らない世界」や丹波哲郎の「大霊界」にも関心を示し、時々、泊まりにくる祖母が来た時、夜中に目が覚めると、息をしているか確かめる私。

 あかん、今日も話がそれまくってるやんけ。つまりね、自分には変わらない自分ってのがいて、それを「本当の自分」と言ったりするのだろうけど、今までずっと忘れないでいたことなども、かなり関係するんじゃないか、自分を知る手掛かりになるんじゃないかなって話をしたかったのです。と言うか、そんな話になってしまいました。とりあえず今から「快傑ズバット!」をYouTubeで探したいと思います。ありがとうございました。

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