改造人間になるんだ 2011.12.11

 昨日の日記では、また、思わず熱く語ってしまったけど、20年ぶりにその消息がわかるのは、まさにネットの恩恵。釜山大学の会で、私が覚えている範囲のメンバーを検索してみると、何人かはフェイスブックにも普通に出てくるし、やはりそれなりにすごい人も多いみたい。あのような会に参加するってこと自体、すごく意識が高いと思うし、そのまんま大人になると確かに面白い。

 思うに、世の中で成功者と呼ばれる人って、いわゆる「子ども」が多いと思うのです。つまり、子どもの頃の想いをそのまま持ち続けて成長する。また、ふと思い出したことがあります。あれは、小学1~2年の頃だったと思いますが、突然、ひらめいたのです。子どもながらに。

「オレは改造人間になろう」

 我ながらスゴイひらめきだと思って、よく遊んでいた友達に、「秘密がある」と打ち明けました。だけど、こんな「秘密」は大切にした方がいいと思って、しばらく勿体ぶります。「絶対誰にも言わないって約束するなら教えてあげる」と言い、「約束する」と返事をもらったので言いました。

「オレ、将来、改造人間になるんだ」

 するとその友達、「そんなのマンガの世界だよ!」とdisり始めたのです。この大切な「秘密」を打ち明けたにも関わらず、そんなdisるなんて、、、と思いながらも応戦。

「改造と言っても、全身じゃなくて、身体の一部ってこともある」

などと。それでも、「それはマンガだ」と、あまりにも正論を貫き通すのです。IQの低い私にはその正論が理解できなかった。だけど、今思うと「改造人間」なんていくらでもいる。性転換だってそうだし、包茎手術だってレーシックだって改造は改造。

 そんなのは別としても、例えば「夢を叶える」ってのも、改造の一種かもしれない。私が言いたいのは、友達が「改造人間になる」と力んでるのに対し、「それはマンガだ」と可能性を端から否定する、そんな奴はクソだってこと。細かいことよく覚えてるな~と自分でも感心するのですが、当時の私にとって、それだけインパクトがあったってことでしょうか。

 まあ、仮面ライダーとかキカイダーのような改造人間にはなれないし、なりたくないってことは、あと2~3年もすれば普通に悟るわけだけど、そんな小一の頃から「改造人間なんてマンガだ」と「可能性」を否定するなんて、やっぱりクソなわけです。

 おそらく、ちびQももうすぐ「アンパンマンになる!」とか言いだすでしょうが、それを否定する親にだけはなっちゃいけないですね。そんなもん、親が言わんでも、ちょっと成長したらわかるようになるっちゅうねん。それよりも「可能性」そのものを「否定」すること自体が、子どもの芽を摘むことになるんですよ。そんな親もクソ。

 あ、また思い出した。今度は中学の頃の話。さすがに「改造人間になる」とは言ってなかったけど、その時も確か何かになるって話をある友達にしたと思うのです。そしてその友達の口癖がこう。

「寝言は寝てから言え」

 そのセリフ、おそらく20回は聞いたと思います。しゃれたセリフとでも思っとんかい。で、その二人の友達は今どうしてるか。このブログ読んでたら気悪くするかもしれんけど、ま、いいか。私が知る限り、まあ、今でもクソですね。

 そんなこと言ってると、また口が悪いと言われそうだけど、私の言わんとするのはわかりますよね。「可能性」を「否定」すること自体がクソってことで、決して昔の友達の否定じゃないってこと。すいません、フォローになってないかな。

 結局、人の可能性を否定するってことは、自分自身の可能性まで否定してることになる。例えば、「私、会社辞めて独立したいのです」なんて言うと、同僚や上司はまず間違いなく否定するでしょうね。「オマエには無理だ」とか。だけど、よくよく考えてみると、同僚や上司は、その時点ではまだサラリーマンで独立経験もないか、あっても失敗して戻ってきてるわけだから、「オマエには無理だ」ってのは、つまり自分のこと。

 だけど、すでに独立して成功してる人に言ったらどうでしょう。私なら間違いなく、「いいね」って言うと思います。もちろん独立したからと言って誰もが成功するとは思っていません。だけど、本当に独立したいと思うなら、とりあえずやってみてもいいじゃん、とは思います。

 ただ、状況にもよりますけどね。妻子ある男性が、会社でもそこそこの給料もらいながら生活してて、ある日、ちょっとした自己啓発セミナーに参加して目覚めて、「オレ、会社辞めるよ!」なんて言い出したら、さすがの私も「ちょっと待って」とは言うかもしれない。だけど、それを3回聞いたら、もう否定はしないでしょう。

 宗教や自己啓発ってのは、場合によっては人を恣意的にコントロールすることもあるので、一時的な感情だけで決めてしまうのは危険。その意味ではマルチビジネスなどもそうかな。特に誘った人などは、最初は「会社と両立できる」と言いながら、始めて一定期間すれば「会社を辞めろ」って言いだす。私も以前、言われましたからね。そして一部のマルチでは、かなり強烈な洗脳をしますので、「明日、辞表を出す」などとコミットメントさせられて、そのまんま転げ落ちるわけです。

 そう言えば先日からの「欠乏感」の話ですが、実際にあった話。ある主婦の方もまた、家事育児の毎日で、自分の無価値観に苛まれていた。そんなある日、知人から「変われるよ」と言われて自己啓発セミナーに参加。そしてどっぷりハマる。そこでは「自己重要感」をこれでもかとばかりに満たしてくれるわけで、そしてワンワン泣いて、本当に変わってしまう。

 すると次にどうなるか。もともとの「欠乏感」を、承認のシャワー、いや洪水で埋めてくれるわけですから、セルフイメージが劇的上がる。何でもできるような気になる。そこでふと思う。これでいいのか。家事育児の毎日でいいのか。そもそも私はこんな人(夫)と一緒でいいのか。私にはもっとふさわしい世界があって、相応しいパートナーがいるはずだ。そうやって言われるがままに離婚届を出して、子どももほっぽり出して、新しい世界に飛び出す。

 だけど、、、こんどは自己啓発の勧誘ノルマが厳しくて、段々と「承認」を頂けなくなる。ただでさえ、生半可な「承認」じゃ満足できなかったのに、今度はそれをもらえないばかりか、勧誘できないことを厳しく叱責される。勧誘できない私は無価値だ。「欠乏感」の復活です。そして気がつけば、、、夫も子どもも家族もなく、承認してくれた人は、単なるビジネスの付き合いであって、心の交流など偽りの世界だった。残ったのは数百万の借金。そして「欠乏感」の穴は前よりも深く広がり、それを埋めるためには、新たな出費が必要となる。麻薬ジャンキーと同じ原理のセミナージャンキーです。

 「改造人間」の話に戻りますね。「改造人間になる」と言う子どもに対し、「それはマンガだ」と否定するのは、確かにクソかもしれない。だけど、大人が「改造人間になる」と言ったら、それはちょっと冷静に考える必要があります。じゃあ、子どもと大人とは何が違うのか。

 それは何度も繰り返しになりますが、その願望(改造人間になる)の出所が違う。子どもの場合は「充足感」であり、大人の場合は多く「欠乏感」から来てるのです。子どもが仮面ライダーを見て、純粋に悪者をやっつけたいと思う。言い換えると、それは社会貢献したいってこと。すでに満たされてるのだけど、もっともっと自分を生かしていきたい。その時、「改造人間」なる方法が魅力的に見えただけ。

改造人間になるんだ 2011.12.11_b0002156_9294484.jpg 一方で大人の場合は、社会貢献なんかよりも、自分の満たされなさをどうにか解消したい。そのためには「改造人間(宗教や自己啓発、精神世界など)」になる必要がある。幸い、それにつぎ込むだけのお金もあった。借金もできる。改造人間になれば幸せになれる。だけど、改造しても改造しても満たされず、気がつけば韓国の「風船おばさん(写真)」のようになっていた。

 ほんと、「欠乏感」ってのは泥沼です。子どもの「改造人間」はすでに満たされた状態の「願望」であり、ほっておけばいい。むしろほっといた方がいい。さすがに改造人間はないけど、現実的でありながら夢のある願望に変わるのだろうから。だから、子どもの「改造人間」を最初から否定するのはおかしい。

 「改造人間」じゃなくて、医者になりなさい。弁護士でもいいわ。そのために、もっともっと勉強しなさい。テストは100点取りなさい。一番になりなさい。90点は点数じゃないわ(←このセリフ、中学の頃に聞いたことあります)。スポーツも頑張りなさい。絵もピアノも上手に。社交的でありなさい。そうでないと、、、あなたは「無価値」なのよ。

 そんな風な「条件付け」をされ続けることで、「欠乏感」の穴はどんどん広がるばかり。それに対して、子どもが「改造人間」になりたい!と言うのなら、「面白いね~頑張れ!」って言ってあげるといい。もちろん改造人間にはなれないけど、自分が「なりたい、やりたい」と思うことを「承認」してくれる「充足感」は残る。そして「やりたい」と思うことを、次々とチャレンジする。

 考えてみると、私は親から「ダメ」と言われたことがほとんどありませんでした。小学校の頃、野球をやりたいと言ったら、グローブとユニフォームを買ってくれた。結局、それは中途半端になりましたが、中学高校は吹奏楽部。卒業して楽器がなくなると買ってくれました。土方してもう一年浪人したいと言うと、それもOK。就職しないで放浪したいと言うと、それも最終的にOK。その後も何をやろうとOKしてくれた。その意味で、私はすごく恵まれてた。

 だけど、そうじゃない人だってたくさんいる。「やりたい」と思ったことを次々とNG出されて、親からの押しつけをしなければ「無価値」だと育てられる。だけど、親だって悪気はない。親だって人間。子どものことを思ってNGを出していた。改造人間になるなんてバカなことを言って欲しくない。小学生なら、せめて野球選手か歌手くらい言って欲しい。改造人間はないわ~。だけど、そんなことアホでも気づくっての。

 それよりも、それが仮に「改造人間」だったとしても、その「可能性」を摘むようなことはあってはならない。もちろん5階から飛び降りるなんて言い出したら、それは止めるべき。全力で。だけど、生命の危険がない範囲において、子どもの言うことは「承認」することが親のあり方だと、私は思うのです。

 だけど、もう一度言うけど、親も人間だから、そんなこと気づかずに言うことだってある。もし、そのようにNG出されて育てられたのだったら、そのメカニズムを知って欲しい。そして決して親を恨むのではなく、「そう言うことだったのか~」と「理解」すればいい。

 その上で、本当に「やりたいこと」が見つかるまで、今を一所懸命に生きる。頑張ることは頑張る。もしその頑張りが「欠乏感」からのものだと気が付いたら、まずはそれを認める。長年の条件付けは瞬時には変わらないもの。欠乏感からの頑張りであっても、そのことに気が付いて頑張るのと、気づかずに頑張るのとでは雲泥の差。もし今、この文章を読んで、そのことに気が付けたら、その頑張りにもう少しキョリを置いて、その上で頑張ってみればいい。

 そしてある時、本当に「やりたいこと」ができたら、価値があるとかないとか考えずに、まずはやってみていい。それはまるで子どもが「改造人間になりたい」と言うような純粋なものであれば、きっと本当の意味での改造人間、、、いや、改造される前の「子どもの心」を取り戻すんだと思います。

 幸せな人は、子どもの心。改造人間になりたいと打ち明けた、幼きあの日の自分に感謝したいと思います。ありがとうございました。

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Commented by May at 2011-12-13 12:29 x
欠乏感が偽りの自分を生み出し、その自分ではない自分を攻撃(自傷)したり、他者を攻撃したり、環境を壊したりするのかな。
離れたと気づいたらいつでも自分自身に還って、そのままの自分として燃え尽きたいなと最近は思っています。
分かってくると、存在価値のないものなど一つもないってことが自ずと感じられるようになってきますよね。
Commented by at 2011-12-13 12:38 x
「書くモノ」と「書かれるモノ」

・・・

まあ、「紙とペン」の事なんですけどね。
人でも当てはまるなぁ。ちょっと深いセリフだと今更ながらに思います。
中学からの仲間が言っていたセリフです。
Commented by katamich at 2011-12-21 09:51
■Mayさん!
おっしゃる通りだと思います。
Commented by katamich at 2011-12-21 09:51
■営さん!
なに言ってるのかわかりません。
by katamich | 2011-12-11 23:39 | ■人生哲学 | Comments(4)