宇宙となかよし

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「死後の世界」の話 2010.10.24

-人生を変える100日ブログ(85日目)-  (○×計画24 1/5) 

 ブログ更新が遅れ気味ですね。ま、いろいろありましてですね。今日の○×計画は1/5でした。10月は今のところかろうじて75%以上ですが、このままズルズルと行ってしまうと7割を切るかもしれない。だからこそ「○×」で目に見えるようにしていると効果的。実際、10月に入ってから体重は2キロ減。毎朝4時半~6時には目を覚まして活動開始しています。もうお菓子を食べたい気持ちもなくなりました。すごい効果だと思いませんか。

 「潜在意識」ってのは良くも悪くもパターンを学習します。毎晩、酒を飲むパターンができてしまえば、無意識的に飲みたくなります。腹が減った時にお菓子を食べるパターンができてしまえば、お菓子を食べないと手が付かなくなります。そこで「お菓子を食べない=○を付ける」って感じに、行動を「○を付ける」ことへとハードルを下げる。するとお菓子を食べたい気分がおさまるわけです。

 ただし、「中毒」みたいなのは一筋縄ではいきません。例えば「アルコール中毒」ですが、単に「晩酌の習慣」くらいなら、まずは量を減らすなどから開始できるでしょうが、重度になるとそれは「習慣」ではなく「病気」と呼ばれるようになるので、「○×」くらいでは効きません。酒を飲まないと何もできない。つまり脳内ホルモン(ドーパミンやセロトニン)が出てこない病気なんです。

 ただ、私たちはアルコールに限らず、何らかの「中毒」にかかっている人は、程度の差はあれど決して少なくないです。例えば、お菓子中毒、昼寝中毒、二度寝中毒、オ〇○ー中毒、セ○○ス中毒、ネット中毒などなど。これらは「中毒の対象となる行動」と「脳内ホルモンの分泌」とが結びついて、つまりアンカリングされてしまってるわけです。

 そこでこの「結びつき」を配線替えすることで、中毒を緩和させることができます。「○×計画」ってのは、その「配線替え」のための手段の一つ。私はこれで「お菓子中毒」を克服しています。つまり「お菓子を食べる」を「○を付ける」へと行動を変換することで「お菓子を食べない=○が付く ⇒ 脳内ホルモン」へと脳内配線が替わってしまったのです。さらに体重計に乗って減っているとさらに脳内ホルモンが分泌され、そのうちダイエットが快感になってしまいます。ダイエットに成功する人は口をそろえて言いますもんね。

 食べる喜びよりも、食べない喜び、それによって体重が減ったのを確認できる喜び、そして身体が軽くなる喜びが勝ると、何も考えずに食べていたのが信じられない、と。さらに私の場合は目標体重を切ることで「自転車講演ツアー」の実現が待っていますので、体重を減らすことへの「報酬回路」が二重三重と重なって、今のところうまくいってるわけです。実際、「自転車講演ツアー」のことを考えているとワクワクします。

 今日もグーグルマップで順路をシミュレートして遊んでいました。福岡から北九州、下関から山口、広島。そこから北上して島根県の「出雲大社」に参拝して、そのまま東に進んで鳥取、兵庫、京都と走り、そこから南下。まずは大阪の実家を目指します。その後は奈良、三重から「伊勢神宮」に寄り、ぐるりと名古屋を通り、海岸線を静岡、横浜と進んで、最後は東京って具合。まだまだ未定ではありますが、考えるとマジでワクワクします。

 
 とこれで、最近、ブログが凄まじいですね、、、と言われますが、確かに学びの質量がハンパじゃなく、人間のメカニズムがどんどん私の中で明らかになってきています。特に「アンカリング」というNLPではお馴染みの言葉がありますが、私たちを支配しているのはほとんどがそのアンカリングであることもわかっています。となると、この「アンカー」を除去、停止、変更することが、ある意味、「願望実現」の必要条件だと思っており、そのための研究を続けています。そしていろんなことが次々と明るみに出ていることを、毎日、このブログで発表してるってわけです。

 その一方で「アンカリング」を超えた、人間の本質みたいなところへもどんどんアクセスできている状態。その手段の一つがヘミシンクなのかもしれませんが、それは別に瞑想でも滝行でもいいと思っています。特に私の場合はそれらを日常的にやってますので、相乗的にいろんな現象に立ち会うことができているのかもしれません。

 そうそう、最近、なぜだかヘミシンクに関する問い合わせが私の元へたくさん寄せられますが、率直に言って、答えようがありません。もちろん「個人的な見解」はありますけど、それがヘミシンクの正しい解説かと言われると、決してそうではないでしょう。「どのCDがいいですか?」と聞かれても、まだ一種類しか聞いてないのでわかるはずないです。「フォーカスCDやインサイトCDについてはどうですか?」と聞かれても、まともに聞いたことないのでわかりません。「効果はあるのですか?」と聞かれても、「効果って何?」って逆に聞き返したいくらい。ですので、すいませんが私の元へヘミシンクに関する質問をされても答えようがありませんので、公式な販売店がたくさんあるようですので、そちらへ問い合せをお願いします。

 その上で私の個人的見解を繰り返し言いますが、ヘミシンクは単なるヒーリングミュージックであり、それ以上でも以下でもありません。物理的に「あの世」や「三途の川」を見せてくれるような仕掛けがあるわけでもないし、科学的に研究された音源に催眠誘導のアナウンスが入っているだけ。ですので、例えばポール・マッケンナの本の付録CDと同じ種類と言えばそうかもしれません。ちなみにマッケンナのCDは一冊目がいいですよね。

 ただ、そう言いながらも、実際にヘミシンクで「あの世」や「三途の川」を見た人が何人もいるわけで、その種明かしとしては昨日書いたように「集合的無意識」にアクセスしているだけ。それも文化的な制限を受けた無意識と言えるでしょうか。例えば死生観の異なる文化では当然、「あの世」に関する考え方も違うでしょう。敬虔なクリスチャンやムスリムが「三途の川」をあるとは思ってないでしょうし。ですので、そのような人がいくらヘミシンクなりヒプノセラピーなりで深いトランスに入ったとしても「三途の川」を見ることはないでしょう。

 ついでに言うならば、「三途の川」の正体ってのは割とはっきりしています。それはそう、あの川がモデルです。インドの。はい。ガンジス川(ガンガー)ですね。実際、何度もガンガーには行ってますが、あれはどう見ても「三途の川」そのものでしょう。

 ヒンズー教徒は、最後はガンガーに臥します。それはまさに「三途の川」を渡るための儀式そのもの。バラナシでは毎晩、その儀式(プージャー)が行われ、死者の魂を弔っています。ガンジス川西岸は人々の暮らしがある「この世」であり、死者はそこで焼かれ川に流されます。そして向こう岸つまり東岸はまさに「あの世」があると言われています。実際、西岸に賑わいに比べて、東岸はあまりにも不毛な地であり、私もボートで東岸に上陸したことがありますが、何だかゾッとするような異質な感じを受けたものです。

 このコントラストは西岸の「有」に対して、東岸の「無」に相当し、まさにガンガーが「あの世」と「この世」の架け橋であり、「三途の川」があることが実感できます。私たち日本人の「死生観」も辿りつくところ、この「ガンジス川」にあると考えられます。つまりバラモン・ヒンズーの聖地であるガンジス川ですが、ブッダガヤで悟りを開いたお釈迦様が真っ先に向かった先もこのガンジス川。そこから20キロほど離れたサルナートという地でお釈迦様は最初の説法をしました。インドに生まれ育ち、ヒンズーの文化を受け継いだお釈迦様の「死生観」も当然、この「ガンジス川」の影響なくしては語られないもの。

 それが中国を渡り道教や儒教とミックスされた形で日本の「仏教」へと受け継がれます。そして私たちはキリスト教徒であろうが、他教系の非仏教徒であろうが、文化的に「仏教」の背景を持って育っています。もちろんお釈迦様の時代の原始仏教ではなく、日本式にアレンジされた仏教であるのでしょうが。

 ですので、調べたわけじゃありませんが、「三途の川」ってのはおそらくヒンズー、仏教に重なる文化圏に限られた集合的無意識なのかもしれません。そしてヘミシンクなりヒプノなりでアクセスした「この世」と「あの世」の境目に「三途の川(ガンジス川)」を見るのでしょう。

 ついでに言うと、実際にバラナシに行ってガンジス川の向こう岸(東岸)にボートで行くってのは、「死のモデリング」としては最高のワークかもしれませんね。私はまだ一回しか行ってませんが、行った以上、すでに「生まれ変わり」の儀式を体験していることになるのかも。

 それはともかく、先日、ヘミシンクを聞いている時、ついに「フォーカス27」まで行ってしまったのですが、そこで見た世界は、、、閻魔様もいません。お地蔵さんもいません。もちろん鬼もいません。「三途の川」もこちら側があまりに賑やかな「有」の世界であるのに対し、まさにガンジス川の東側を彷彿とさせる「無」の世界でした。私はそこで「絶対的な静寂」を感じてしまいました。

 ただ、言っておきますが、私は「三途の川」を渡ったのではありません。言葉では説明できない、何やら「幾何学的」なメッセージの中に私自身が溶け込むような。いや、私自身なんてものは存在しません。「幾何学的」と言っていいのかどうかはわかりませんが、この世界をもしかしたら弘法大師空海は「曼荼羅」というビジュアルであえて表現しているのかもしれない。もちろん空海の「曼荼羅」が見えたわけでもないのですが、とにかく何やら言葉で表現できないメッセージ(エネルギー?情報?)の中に溶け込んで行き、そこに「絶対的な静寂」があることを悟ったのです。

 もちろん「静寂」という言葉が適切かはわかりません。「無」でもいいのでしょうが、「無」は余りにも概念化された言葉なので、受けるニュアンスとしては「静寂」の方が近い気はしています。しかしこの「静寂」は今もなお、感じることができます。それはどこにあるのか。「今ここ」にある。

 「静寂」の反意語が何なのかわかりませんが、例えば「内的対話」だったり「アンカリング」だったりもそうだと思います。そして死することとは「絶対的な静寂」に向かうことであり、であると同時に、私たちは今もなお「絶対的な静寂」に一瞬一瞬を生きています。その「一瞬」にはいかなり内的対話もアンカリングも存在しません。すべての条件が排除された「絶対的なる自分」があるだけ。

 つまりどう言うことか。私たちは肉体が死のうが生きようが何ら変わることがないってことです。いつでも常に「今ここ」があり「絶対的な静寂」があり「絶対的なる自分」があるだけ。私たちは生きながらにして死んでいる。しかし永遠に死ぬこともない。その「刹那(と仮に言っておきます)」にただ「存在」があるだけで、実際のところ「実体」なるものはない。

 「本当の自分」とはいかなる「条件」や「アンカリング」からも解放された自分。それを本当に知るには肉体の死を待つしかない。しかし、私たちは100%肉体の死を迎えるのだから、別に今すぐである必要もない。いずれにせよ私たちには永遠不滅の「絶対的なる自分」があり、その「衣」として「肉体(潜在意識)」があり「自我(顕在意識)」をまとっているだけ。ではなぜそのような「衣」をまとうのか。そこにまさしく「魂」の成長があるから。

 特に重要なのか「自我」の存在。精神世界系ではとかく「自我」の存在を否定しようとする風潮がありますが、実はこの「自我」こそが「魂」の成長になくてはならないものなのです。「自我」には「静寂」がありません。しかし周りがうるさければうるさいほど、ひと時の「静寂」が心地よく感じるのと同じように、「魂」の成長のためには、まずは「自我」を燃やして燃やして燃やし尽くすところから始めるしかないのです。

 「願望実現」だって「自我」を燃やすための立派な行い。「○×計画」だってそう。とにかくやりたいとと思ったことは何をやってもいい。やってやってやりまくれ。それが般若心経の「ぎゃーていぎゃーていはらそうぎゃーてい」の真の意味。そこで初めて真の「静寂」を得ることができ、「本当の自分」に出会うことができるかもしれません。

 一つだけ言えることは、人は100%肉体の死を迎えるってこと。そして私たちはその「死」に向かって今を生きている。だからやるしかない。何やっても、何やらなくても、最後は「静寂」へと行きつくのだから。ま、楽しくやっていきましょうや、、、ってことで、何だかもっと書きたい衝動を抑えながら今日はこの辺で。結局、「死後の世界」の話をしっかりできたかわかりませんが、この話はまだ続くかもしれません。ハイヤーセルフとお金の話もしようと思ってるのになかなかね。ではまた明日。ありがとうございました。

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by katamich | 2010-10-24 23:39 | ■精神世界
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