-人生を変える100日ブログ(80日目)- (
○×計画19 2/5)
バス内はかなり快適でした。乗る直前、あまりにも疲れていたので後悔していましたが、やっぱり夜行バスにしてよかったです。ツイてる。8時20分に自宅に到着してシャワーを浴びて横になります。そっから12時まで寝ていました。いくら快適と言えど、夜行バスは2時間起きに起こされるので、寝た気になりませんものね。そこからさあ、ブログの更新とかいろいろ片づけるぞ~とか思ったのですが、身体が動きません。まだまだエネルギーチャージが必要ってことで、しばらく横になっていました。それこそ、ちびQを迎えに行く時間くらいまで。
ところで今回の大阪・名古屋セミナー・伊勢神宮を通して、お伝えしたいことが山ほど出てきました。ほんと、何からお話していいのやらってことで。思い付いたところから追々書いていきたいと思いますが、どうしましょ。とりあえず今回のセミナーの中心テーマの一つでもあった「ハイヤーセルフ」についてでもお話しましょうか。
最初に申し上げておきますが、今から私が書くことは正しいです。偉そうな言い方かもしれませんが、正しいと言ったら正しいのです。なぜそこまで確信して言えるかと言うと、簡単な話。脱催眠時に実際に何度もハイヤーセルフの声を聞いているからです。余計わかんなくなりそうですね。
この話をする前に、やっぱり「催眠」とは何ぞやって話をする必要があるかもしれません。今回のセミナーでもしっかりお話しましたが、伝わったかどうか。とりあえず今から書くことで復習して頂ければと思うのですが、実は私は今まで、、、常々一つの疑問を感じてきていました。その疑問について書いていいものかどうか。でも勇気を出して書こうと思いますが、決定的な一言を。それは「瞑想は覚醒の手段には成り得ない」ってことです・
もっと正確に言うと、世の中には間違った「瞑想法」があまりにも多く、それが「覚醒」をどんどんと遠ざけている事実があるということ。なぜか。私が思う本来の「瞑想」とは世界を「あるがまま」に見ることと直結するわけですが、私が思う間違った「瞑想」は、それとは逆にどんどんと「変性意識」に入ることを目的としているようだからです。
今、試しにグーグルにて「瞑想 変性意識」で調べてみると、思った通りです。やはり「瞑想」を「変性意識」に入る手段として用いている記述があまりにも多いこと。まず私たちの世界には大きく分けて「外的世界」と「内的世界」があります。苫米地さんなどは「内的世界」のことを「内部表現」と言ったりしますが同義と思っていいです。
「外的世界」とはこの世の「あるがまま」の世界(正確に言うと量子的世界)。そして「内的世界」とはおよそ私たち大人が住んでいる世界の90%以上の世界となります。心配、期待、後悔、希望、願望、、、などはすべて「内的世界」ですし、ようするに「記憶」や「想像」それ自体がすでに「内的世界」なのです。
わかりやすく言うと、「預金残高356円」って現実があったとして、「外的世界」は「預金残高356円」以上でも以下でもないのですが、「内的世界」ではそれを「どうしよう・・・」と解釈的にとらえてしまいます。そして私たちはおよそ24時間、寝ている間も、何らかの「内的世界」に支配されながら生きています。
そこで「瞑想」なんですが、私が思う間違った瞑想の多くは、この「内的世界」を変えるための瞑想になっているんじゃないかと。別の言い方をすれば「自己洗脳」とも言えますが、つまりは瞑想によって強い「変性意識」を経験しましょうってこと。「変性意識」とは読んで字のごとく、意識を変えるわけですから、完全に「内的世界」の操作以外の何ものでもありません。
原始仏教で取り入れられていた「瞑想」とは「止観」のことであり、まずは心を鎮め判断を「止」めること。これをサマタ瞑想と言います。そして世の中をあるがままに「観」ること。これをヴィパッサナー瞑想と言います。日本でもヴィパッサナー瞑想のセンターなどがあり、時々、体験者のブログなどを目にすることがあるのですが、なぜだか過去の記憶だとか前世とか、そんな現実(いまここ)にありもしないものに目を向けている人が多いこと。これこそ私が言う、間違った瞑想であり、ヴィパッサナー瞑想の対極にあるものだと言えるでしょう。
ヴィパッサナー瞑想にあえて近いものをと言えば、禅がそうかもしれません。ただひたすら「あるがまま」でいること。にもかかわらず、ヴィパッサナー瞑想の体験談などを見ると、あれが見えた、これが聞こえただのがなんと多いこと。もし本当の瞑想が進んで見えるものがあるとすれば、それは「空(くう)」だけであって、インナーチャイルドなんてものは出てきません。ついでに言うと、今なぜかブームの「ヘミシンク」などは完全に「変性意識」を楽しむものであって、それで「覚醒」することはまずありません。
では、「覚醒(悟り)」とは何かって話になるのですが、それはまさしく世の中を「あるがまま」に見ること以外にありません。何度も言いますが「預金残高356円」って現実があったとして、覚醒者はそこに「預金残高356円」って現実だけを見るのに対し、そうでない人は、どうしよう・・・と心配したり、逆に変に開き直ったりして落ち着きません。
どんなにあがいても現実は現実。心配したところで現実は変わりません。まずはそれを「あるがまま」に見て、「今できること」をする。それしか選択肢はないはずなのに、なぜかそこに様々な心配など「内的世界」を通してしまう。そしてその「内的世界」に半ば逃げ込んでしまいながら、そのまま時間だけが過ぎ去ってしまう。
ペンが落ちたら拾う。これは誰にでもできますが、覚醒するとは、いかなる現実に対しても、このレベルですべてとらえることができること。それが「悟り」なのです。「ペンが落ちたこと」と「預金残高356円」の間には、何のレベル差もない(つまり「差取り」)。ただあるのは、現実がそうであること。
しかしよく見る「瞑想」には、とかく意識を内面に内面に向けてしまい、そこにあらぬ「幻想」を見ようとする。覚醒者が「瞑想」で見るところは「呼吸」が限界であり、その他があるとすれば、それは「身体」くらいでしょうか。ちなみにNLPではそれをセンサリーアウェアネスと言ったりしますよね。
「瞑想」でいわゆる「魔境」に入ってしまう人も、とにかく意識を内面に内面に向け、そこにあるはずのない「真理(実は幻想)」を見ようとする人たち。人間の脳ってのは単純にできていて、その人が「見たい」と思ったものを見せてくれるメカニズムがありますし、そもそも私たちは日頃から見たいものしか見ていません。ですので、スピリチュアルにハマった人が、密室サークルなどで「天使」の話ばかりしていると、そのうちに集団で「天使」が本当に見えるようになります。これは単にそのグループの潜在意識が同調しているだけで、実際に「天使」が現れたのでは決してありません。
間違った瞑想も同じで、その人がもし何らかの「神秘体験」をしたいと願っているのであれば、脳はどんどんとその神秘体験を実現させるように働き、ある時、大量のドーパミンが放出されるとともに、見たかった「神秘体験」が見えることがあります。そしていきなり「悟った~!」と大騒ぎするわけですが、これは単に「内的世界」に自分の見たかったものが極端な形で反映されたに過ぎず、でありながらも、その「情報」があまりにも大きいため、多くの人間を同調してしまうくらいのパワーが出てきます。それが「教祖誕生」のメカニズムであり、オウムの麻原がその典型です。彼は完全に「魔境」に入ってしまってますし、同時にクンダリーニシンドロームでもあります。
もう一度言います。「覚醒(悟り)」とは何か。それは断じて「神秘体験」ではありません。こればかりは何度も何度も何度も言う必要があります。「覚醒=神秘体験」と思っている人があまりにも多い。まずはその「幻想」から解放されることが何よりも大切。では、もう一度言いますが、「覚醒(悟り)」とは何か。それをもし一言で言うと、
な~んだ!
ってこと。これじゃあ、楽しくないですか? 覚醒すると神秘的な体験ができて、他の人と違った自分になれて、特別視されながら、不安も悩みもすべて吹っ飛び、人生が大逆転すると思っていたのに。頑張って瞑想したら、今までと違った自分になって、現実がすべて都合よく変わって、恋人もできて、預金残高も356円から3億5千6百万になって、、、そんな「期待」をしている人には、大変、心苦しいことを言わざるをえません。
「覚醒」したところで何も変わりません。しかしながら大きく変わることがあるとすれば一つ。それは「現実」以上に「現実」を見ることができるってこと。何度も言うように、私たちは24時間ほとんどの時間を「内的世界」の中に生きています。それが深まると「変性意識」になるのですが、「覚醒」することで、一切の「変性意識」から解放され、この世の中をまさに「あるがまま」に見ることができる。
私たちはもともと生まれながらに、この「あるがまま」の世界に生きていたはず。でも成長と共に前頭前野が発達するにつれ、記憶や判断、解釈が生じてきます。それを「自我」と言うのですが、「自我」が徐々に「あるがまま」の世界を見えなくしてしまいます。「自我」は基本的に「見たいもの」しか見ようとしません。その「見たいもの」が「内的世界」を形成し、私たちはいつの間にか「内的世界」の奴隷になってしまうのです。
「覚醒」とはまさに奴隷解放宣言のこと。確かに世の中の現実は変わりません。今の事態も変わりません。でも、私たちが思っている世界のほとんどが「内的世界(つまり幻想)」だったと悟ることで、唯一本物のリアルな世界に立ち戻ることができます。それが「今ここ」です。そしてその地点から世の中を見ると、、、なんて素晴らしいんだろう、、、と気づくことができます。それと同時に、世の中には眠っている人がなんと多いことかってこともわかります。一般的にスピリチュアル好きの人は、眠りに眠りを重ねようとする傾向があります。
つまりこの世の中それ自体が「幻想」であるのに、さらに前世だの守護霊だの、新たな「幻想」を変性意識によって作りだそうとする。何だかな~と思うのです。
先日、「もう批判はしない」と言いましたが、今日の日記が批判に当たるかどうかわかりませんが(少なくとも私はそのつもりではない)、周囲を見てみると、あまりにも自分の「内的世界(幻想)」に苦しめられている人が多いことか。実は人知れず、そのことに心を痛めている自分がいるのです。大きなお世話と言われればその通りですが、こうすればもっと楽になるのにな~って思うこともしばしば。でも、本人に直接言ったところで、その人と強烈なラポールでもない限り、聞いてくれない。だからこうやってブログに書いてるんです。
今日みたいなブログを読みたくない人もいるでしょうが、その人はまだ時期じゃないのかもしれません。でも、いつかきちんと目を通して欲しいとは思っています。そしてこれからも、何度も何度も、書き続けたいと思っています。実はハイヤーセルフからも書くように言われてるんです。マジで。
あ、今日はハイヤーセルフの話するんだっけ。長くなったので、続きは明日にでもしようと思います。これからブログがどんどん濃くなりますので覚悟あれ。ありがとうございました。