宇宙となかよし

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Qと申します。読んで頂いた皆さんが笑顔になり、ますますパワーアップできるようなブログを目指しています。

そうですね 2010.9.26

-人生を変える100日ブログ(57日目)- 

 9月の連休も今日で終わり。Q州ツアーから一週間がたち、ちびQはずっとお家、木曜日から来ていた大阪の母親も今日の午前中に帰りました。ちびQはこの2週間の入院騒動の間、かなり成長した気がします。言葉も多くなったし、意思表示も明確になってきて。可愛いしぐさもかなり覚えました。明日からようやく保育園に復帰。私も日常が戻ってきます。

 さあ、今から何をしましょうか。昨年の10月1日は私にとって記念すべき日でした。博多に出張に来ていた評言社の社長とお会いして出版にゴーサインが出た日。それから2週間ほどで原稿を書き上げ提出。ちょうど11月に沖縄に行っている間にゲラが家に届いて、すぐに見直し。3日間ほどでファックスのやり取りで原稿の修正。そして印刷に入り、12月の「出版プレ講演会」にて会場に直接本が届き、初めての御対面と相成りました。まるで初めて我が子に会うような心境だったのを覚えています。

 あれから一年。2010年も残り3カ月ちょっと。今年もいろいろありましたが、有終の美を飾るためにも、一冊は本を出します。今のところ大きく2つのネタがあり、どちらが先でもいいし、場合によっては同時でもいい。ネタとしてもかなり成熟しているので、現段階での私の集大成になりそうです。2つのネタとは「悟り」と「願望実現」です。もし、願望にとらわれないあり方を「悟り」と言うのであれば、その二つは矛盾していることになります。しかし私の中では「悟り」も「願望実現」も見ている角度が違うだけで、実は同じことを言っている。その辺のことを2冊の本をリンクさせながら表現できればと思っています。

 ただ、今までブログやセミナーなどで様々な「表現」をしてきたと思うのですが、どうやっても「言葉」には限界があります。特にブログでは様々な矛盾と誤解を招いてきたこともあり、一貫性のなさを指摘されたこともあります。ただ、ふと思ったのですが、世の中にそもそも「矛盾」なるものはあるのでしょうか。「矛盾」とは辻褄が合わない状況を意味するのでしょうが、この世の中って現象だけ見ていると、辻褄の合わないことばかり。散々地球環境を破壊してきた企業や政府が、いまだ現在進行に破壊しながらも「環境保全」をうったえかけたり。そんな事例はいくらでもあります。

 しかし、その人なり、企業なりが、命をかけて本気で主張し実行していることに「矛盾」などあるのでしょうか。言ってることがわからないかもしれませんが、私だってわかっていません。でも、感覚的にも言えることは、もしかしたらこの世には一切の「矛盾」など存在しないってこと。

 例えば哲学や精神世界でしばしば言われるのに「決定論」対「自由意思論」ってのがあります。「決定論」とは、この世の中は最初からすべて決まっており、何一つ自由意思が挟み込む余地がないって立場。一方、「自由意思論」ってのは「決定論」とは逆に、この世の中は何一つ決まっていることなどなく、各々の自由な意思決定で世の中が動かされているという立場。

 この二つは一見、「矛盾」しているように思われます。しかしもしここで、それは両方正しい、と言うとどうなるでしょうか。多くの人が、それは矛盾してる!と叫ぶでしょう。しかし私の感覚では、どう感じても、そして考えても、「決定論」と「自由意思」はまったく矛盾していないのです。それを言葉で説明すると、ある程度までは納得頂けると思いますが、完璧な説明など出来ないことだけは確か。

 ただ、一つ言えることは、この世の一見矛盾していると思うことをすべて受け入れることができれば何かが変わるってこと。もしかしたらそれを「悟り」と言うのかもしれないし、別に言い方では「メタ」に抜けるってことなのかもしれない。

 そもそも私たちは、その「存在」そのものが矛盾に満ちています。その一番の矛盾は、私たちは「死」に向かって「生」きているということ。ハイデガーはそんな私たちのことを「死への存在(Sein zum Tode)」と呼んだわけですが、自明のことながら、私たちは100%の確率でいつか死にます。それだけは自由意思の介在が一切許されない「決定論」であることは間違いないです。もちろんその時期はわかりませんが、いつか死ぬことだけは確か。

 そして生きるとは、まさに死に向かうこと。こうやって一秒、一分、の経過とともに、私たちは確実に「死」に向かっています。あたかも「死ぬために生きている」かのごとく、この一瞬一瞬を過ごしてわけです。なんと矛盾に満ちた存在なのでしょうか。

 およそこの世のすべての宗教、思想、哲学は、この「生」と「死」の矛盾を超越するために存在すると言っても過言ではありません。私たちの「苦」や「恐れ」の根源は「死」であり、どうにかしてそれを超越することだけが、ひょっとしたら私たちが生きている意味なのかもしれません。

 その「超越(メタ)」としての道がもしかしたら「悟り」なのでしょう。「悟り」の本質は何かと問われれば、様々な解答を用意することはできるのでしょうが、究極の一言を言うならば、それは「死を待たずして死ぬこと」なのです。もちろんそれは仮死状態になることでも、幽体離脱することでも、瞑想などで変性意識を体験することでもありません。

 「死を待たずして死ぬ」とは、「人間は必ず死ぬ」ことを覚悟すると同時に、「人間は絶対に死なない」ことを知ることに他なりません。つまり「人間」は「死ぬ」と同時に「死なない」ってことを知ること。それが究極の「悟り」なのです。

 別の言い方をすれば、私たちは今この瞬間にも、、、「生」と「死」を同時に体験しています。誤解が生じそうなのを承知で書くと、「生」が「有」であり、「死」が「無」であるとすれば、私たちはまさに「有」と「無」を同時に体験しています。本質的にはこの世に「時間」などは存在しません。なぜなら「時間」の正体は「記憶」であり、「記憶」とは「実在」ではないからです。「記憶」とは前頭葉が生み出す、単なる脳内現象に過ぎないのであって、正真正銘のリアルな「現実」ではないからです。

 そこで「時間」が存在しないとすれば、あるのは「時間」を超越した「今」だけ。しかし「今」とはその概念があるだけで、それの実態を示すことは不可能です。ユークリッド的な言い方をすれば、0次元こそが「今」であり、そこには長さも面積もなく、ただ位置(存在)があるだけ。つまり「無」なのです。私たちは常に「無」にしか生きるところはなく、別の言い方をすれば、私たちは「無」を「有」していると同時に、「有」など「無」いってのが「存在」の本質なのです。

 段々とわけわかんなくなってきたと思いますので、この辺で元に戻りたいと思いますが、とりあえず今を生きようよってことですよね。私たちが生きられるのは「今」しかないわけで、その瞬間瞬間に最高の「オレ」を生きることだけが、宇宙から求められている一つの「生き方」なのかもしれないってね。

 やっぱこの辺りの話って言葉にするのは難しいっす。でも、言葉にする必要もなく、「それは矛盾してませんか?」って言われたら、「そうですね」の一言で返しときゃいい。その「そうですね」の一言がなかなか出てこないってのが、今までの私だったのかもしれませんが、ここ数日の何らかの変化においては、すべてが「そうですね」って気分なので、たぶんこれからも「そうですね」で生きていけそう。もちろんあえて「論争」や「理屈」の言い合いをすることはあろうけど、すべてに矛盾がないように、すべてが「そうですね」の世界だってことも知ってるわけだから。

 と言いながら、10月1日から「○×」の行動計画一ヶ月限定でやりましょうよ!なんて呼びかけてりしても。でもそれはそれでいい。生活なんて変える必要もなければ、そもそも変わらない。もっと言えば、自分って存在も絶対に変わらない。これは死んでも変わらない。バカは死ななきゃ治らないってのは永遠なるウソ。死んでも治らない。それでも変化を目指して「今」を生きることはいいんじゃない、、、って気分です。

 今日は(も)なかなかにわけわからんブログになりましたが、明日からまた日常が始まります。でも、そもそも言えば「日常」も「非日常」もないわけで、ただ単に「今」があるだけ。今日も明日も同じ「今」を生きるだけ。ま、いろいろありますけど、いろいろないわけで今日はこの辺で。ありがとうございました。

ぽち、、、ぽち、、、ぽちり、、、ぽ・・
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by katamich | 2010-09-26 23:39 | ■精神世界
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