悟りと幻覚・・・ 2010.9.17

-人生を変える100日ブログ(48日目)- 

 結局、なれない病院なためか眠りが浅く、夜中に何度も起きてしまいました。その一方で、ちびQは8時から朝の7時頃まで熟睡。夜中に一度おむつを替えただけ。やっぱり体調が悪いと眠りも浅かったんでしょうね。お熱は36度5分まで下がってもはや平熱以下。すやすや眠ってくれてひと安心。症状としては咽頭炎で原因はわかりませんが、保育園かどっかで菌をもらってきたのでしょうか。ま、赤ちゃんの場合は病気になるほどに強くなると言いますから、これもまた修行。親にとっても修行。

 そして私は夕方にツレとバトンタッチ。明日のQ州ツアーの準備などいろいろ。当初、この日程は北海道ツアー(セミナー)を考えてたのだけど、諸々の理由により今回は中止。でももし北海道を入れてたら、大変でした。前日には入らないと行けないし、そうなると入院騒ぎでオーバーフローするところ。今回はツレには申し訳ないと思ってますが、連休での入院なのが幸いか。無事にQ州ツアーも敢行できますし。そして何だかんだ言って、Q州ツアーも定員に達しました。今年もまた楽しい3日間になりそうです。今回は最終的に若干男性が多くなりました。

 ま、何だかんだ言ってすべてはうまくいっている。なるようになっている。最近、本当に自然とそう思うようになっているので、不満を思うことがほとんどありません。サラリーマン時代を10とすると、今は1以下かも。もちろんその都度その都度で最善の努力はしますよ。でも、起こってしまったことは起こってしまったこと。何を抗っても仕方がない。その時々に最善を尽くすしかないのですね。その意味で、ちびQの入院も決まっていたこと。すべては良きことのために、です。

 しばしば、人は悟れば幸せになれる、、と言われることがありますが、これはそうだと心から実感。ただ、「悟り」についての定義が人によってあやふやで、時には「チャネリングができる人」とか「クンダリーニが上昇した人」とか「常人にない神秘体験をした人」などのように思われることがありますよね。でも、これらは大きな間違い。

 以前、ユーストリームの無料セミナーでも言ったと思いますが、「悟り」ってのはまずは「内的世界」から完全に解放されること。私たちの24時間のほとんどが「内的世界」に生きていますよね。「心配」ってのは典型的な「内的世界」ですもんね。起こってもいないことに対して、「~だったらどうしよう・・」とか思ったりして、この「~」の部分がすなわち「内的世界」のこと。そしてこの「~」の部分は、それが強くなればなるほど「実現化」しやすくなります。ですので、何度も言うように、自分にとって都合のよい「内的世界」を構築することが「願望実現」のキモであり、それは通常、イメージングなどと呼ばれたりします。

 ですので「心配」ってのは、ネガティブなイメージングに他ならないわけです。話を戻すと、「悟り」ってのは良くも悪くも様々な「内的世界」から解放されること。つまり物事を「ありのまま」に見ることであり、それを「受け入れる」こと。そして拙著「宇宙となかよし」にも書いたとおり、「愛=与える、感謝=受け入れる」により、「悟り=感謝」という図式も成り立つわけですね。

 つまり「悟り」とはすべてに「感謝」すること以外になく、それは神秘体験でもクンダリーニの上昇でもなんでもないわけです。霊界の声が聞こえることとも無関係どころか、それは最も「悟り」から遠い状態でしょう。霊界の声が聞こえることや、神秘体験の本質は「幻覚」です。単純な話、脳内からドーパミンが大量放出されて、無意識からの情報が前頭葉に流れ出したことで、「自分の見たい映像」が見えるだけなのです。ですので「天使」が見たい人は天使が見えますし、「仏様」が見たい人には仏様が見えます。

 これは私自身が「経験」しているからこそ言えること。以前の私はかなりのスピヲタだった時期があり、とにかく「霊が見える」などの特殊な体験をすることを目指して、少しでも自分を「特別視」される位置に置きたかったわけですね。ですので、私にとって「霊」は最も見たい対象だったのです。そしてサラリーマン時代の徹夜が続いた時、そして過酷な滝行をやった時など、脳内からドーパミンがたくさん出て「視床(情報の関所)」が崩壊、それにより無意識から前頭葉へと「自分が見たいと思っている」という経路を通って、その結果、「霊」が見えただけのこと。過去に日記にも霊が見えた話をしてた時がありますが、それらはすべて「幻覚」であったことをはっきりと申し上げておきます。

 7月に根元昌明さんの「第九」のコンサートに行った時、いかにもピヨピヨ系のスピヲタさんたちが「天使が降りてきた!」とか大声で言い合っていたそうですが、その99%がウソでしょう。だってそう言っておかないと、仲間内から「下」に見られますもんね。ただ、1%は本当に見えていて、その理由もこれで説明ができます。つまり「第九」を聞いてドーパミンが出て、無意識から「天使」の画像が前頭葉へと送り込まれただけ。

 何度も言いますが、人は「見たいもの」から優先的に見るようになっています。それが「天使」であれ、「心配」であれ。「心配」を見たいと言うのは間違ってるように思うかもしれませんが、そればかり思っていると、無意識は「見たいんだな」と勝手に判断して、そして見せてくれます。つまり現実化。

 ところで、「自我」とは「評価関数(部分関数)」だという定義があります。苫米地英人さんが言ってるのですが、私もそう思います。この「評価」とはつまり「見たいもの」に他ならず、苫米地さん的に言い方をすれば、この「見たいもの」以外の部分を「スコトーマ(盲点)」と言ったりしますよね。そしてさらに苫米地さん的に言えば、「悟り」とは「スコトーマ」が完全になくなった状態のこと。

 と考えると、何らかの神秘体験で天使なり霊界が見えたとして、それはその人が単に見たいから見えたのに過ぎず、「悟り」からは最も無関係であることがわかるでしょう。もう一度言いますが、「悟り」とは「ありのまま」を見ること。そして受け入れること。世の中にはあるものしかなく、起こることしか起こらない。しかし人は自分の自我の欲求にしたがって特定のものから見たいし、特定の現実を引き寄せたいと思うわけです。その結果、それが結晶化することを「願望実現」と言うわけです。

 そう考えると「願望実現」も実に簡単。まずは悟った状態、つまり物事は「ありのまま」であることを知った上で(つまりメタに立った上で)、そこからあえて「内的世界」を操作すればよいだけですから。明日のQ州ツアーでは「スプーン曲げ」を題材として、それを証明するワークをしてみたいと思います。どんなことするのか公開しますと、NLP的なポジションチェンジのワークを「スプーン曲げ」に応用するのです。なぜ「願望実現」がうまくいかないのか。それは「アソシエイト」から抜けられないから。では実現するにはどうすればいいのか。それは「デソシエイト」から「アソシエイト」するわけです。スプーン曲げも一緒。さて、どうなることやら。

 ま、とにかくも結論を言うと「悟り」とは「感謝」のこと。すべてを「ありのまま」に見て、それを受け入れること。天使が見えたなんてのは完全に「幻覚」であり、単なる催眠状態。眠りが深いだけ。そこから目覚めることを「悟り」と言い、つまり「覚醒」と言う。そして感謝しかない!となるので。以上。

すべてにおいて「感謝ベース」で生きているといいことありますよ、、、ってのもすべて論理的に説明できるんです。この辺の話、早く本で出したいですよね。つまり悟りとか、願望実現とか、精神世界とか、その辺の漠然としたことをすべて左脳的・論理的に説明し尽くす本をね。今のところ大ききくは2冊分のアイデアがあり、小さいのも入れると5~6冊はあります。でも、書かないことには始まらない。頑張りましょう。それでは明日からのQ州ツアー、、、めっちゃ楽しんできます。2日ほどブログの更新ができませんが、もしかしたら「裏側」とかではちょくちょく更新してるかもしれません。今日はこの辺でありがとうございました。

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by katamich | 2010-09-17 23:39 | ■精神世界