スピリチュアル疲れのあと 2010.9.6

-人生を変える100日ブログ(37日目)- 

 一週間の滝行ですが、滝場についた瞬間、「般若心経21巻」なる声が聞こえたので、今日から満行までそれで行こうと思います。ただ、そうなると必然的に滝に打たれている時間が長くなり、他にもいろいろ唱えているため、20~30分もの間、滝に打たれていることになります。数珠を手にひたすら唱えるのですが、すべて終わってから出ると、足元がふらふらに。そして家に帰ると、今度はあり得ないくらいに猛烈に眠くなります。

 こればかりは経験者のみぞ知るかもしれません、いわゆる「疲れ」とは違う形でエネルギーが放出された状態になります。そしてエネルギーは「睡眠」によってチャージされる仕組みのようですので、猛烈に眠くなるって理屈のようです。座りながら30分ほど寝てしまっていました。

 あ、そうそう。本日、メルマガを配信しました。メルマガは何かのご案内の時に配信することが多く、今日は10時半からやりました「第五回宇宙となかよしUSTセミナー」のご案内その他のお知らせでした。そして音声のプレゼントも。6月30日の「宇宙となかよし塾in福岡」でお話した「信念が人生を創る!」という一時間の音声です。それ以外にもいろいろ。

 てなわけで、本日10時半からユースト開始。今回は85名ほど見て頂き、目標の100名には及ばず。でも地道にやっていきます。今日のテーマは「悟り2」ってことで、前回の続編になるのでしょうが、正直、何を話すか決めていませんでした。導入部分として最近感じていたこと。

 先日、ある人と話をしていたのですが、私もその方に共感することがありました。それはこの1年ほどで急速に何かが変わってきてる、と言う話。スピリチュアル業界を取り巻く話で、私がスピリチュアルを知ったのは2004年。その時はまだブームに火が付く直前で、深夜には「エグラ開運堂」なる番組がやっていました。パーソナリティはネプチューンの矢倉と、あの太ったオジサン。そう、江原啓之氏でした。そしてその直後、本来、アングラ的な存在だった江原氏はゴールデンに移り、「オーラの泉」なる番組が高視聴率を取ったのは誰もが知るところ。

 そこからいわゆる「(日本の)スピリチュアルブーム」が到来したわけですが、その番組は5年近くも続き、今は時々特番的にやるのみになっていました。それと同時に、世の中のブームも減速し、私が見る限り、いわゆるスピ系ブログも一時期よりはかなり減っているように感じます。と言うのも、2005年~2008年頃に読むことがあったスピ系ブログの「リンク集」を辿ってみると、その大半が削除されているか、更新が完全にストップしています。

 私自身、確かにこのようなブームに流されている時期がなかったとは言いません。しかし、ブームに対する危険性を感じる事件があり、それ以降、ブームとしてのスピリチュアルとは遠ざかるようになり、時には警鐘を鳴らすことも多くなってきました。その事件については、その場に居合わせた人は何人もいたのでご存知の方も多いと思いますし、今さらリンクをしませんがブログにも書きました。

 事件の概要を簡単に言うと、遠隔ヒーリングやチャネリングなどをされるある方が、私の主催する会に私の知人の紹介で来られたのですが、突然、何の挨拶もなしに勝手に有料チャネリングを始めたのです。その時点で微妙な空気を感じていたのですが、一通りのチャネリングが終わって、一応、私の方から名刺を差し出すと、突然、私の名刺を宙に投げ、私に対していきなりネガティブなチャネリングを始めたのです。それも無許可に公然と。詳しい内容は忘れましたが、「それ以上活動を広げると自滅して周囲に迷惑をかける」とか「目に見えない世界がわかる人(いわゆるチャネラーの類)にアドバイスをもらうこと」という感じだったと思います。

 一部始終を見ると、とんでもない話なのですが、驚くべきことに、そこに居合わせた人からは、「Qさん、無料でチャネリングしてもらってオイシイ」とか、そんな声が出てきたのです。さらにはその2~3日後、数名から「あの方の言ってることは本当なので気をつけてくださいね」みたいなメールを頂いたのです。正直、ビックリして、いわゆるスピリチュアルブームなるもの危険性を感じると同時に、決別の機会を頂くきっかけとなりました。

 今思うと、あの事件があったからこそ、私自身もより地に足をつけるようになれたし、いろいろと勉強ができたので感謝しかないのですが、その方の言うことは、言うまでもなく外れました。あれ以降もガンガンに活動は広げており、どんどん進化しているのが現実ですので。そしてその方のブログを今探すと、やっぱり削除されていました。

 
 そして今日のユーストの話につながるのですが、この一年で急速に衰退しているスピリチュアルブームには、いわゆる「疲れ」のまん延があるのではと分析しています。何に対する「疲れ」かと言うと、一つには「教祖探し」、一つには「自分探し」、一つには「幸せ探し」など。

 ネット時代の特徴として、いわゆる新興宗教には胡散臭い目で見ておきながら、ブログ上の「教祖」のことは平気で信頼し、心を開いてしまう傾向があります。しかし信じていた「教祖」が突然ブログを辞めたり、信じていたスピサークルが終わっていたりして、また新たに「教祖」を探すのですが、いい加減、それにも飽きて疲れてきたと。

 「自分探し」については、もちろんスピリチュアルな意味においての「自分」のことであり、例えば「生まれてきた意味」とか「ソウルメイト・ツインソウル」とか「前世・守護霊」の類のことを言います。しかし、一応、それらがわかるとされるチャネラーの言うことも、なんかありきたりだったり、ちぐはぐだったりして、他人に聞くという意味においての「自分探し」にはいい加減疲れてしまった。

 さらに「幸せ探し」については、「自分探し」と同様に、どこかに「幸せ」があるに違いない、それを運んでくれる人がどこかにいるに違いないと信じて、ブログを徘徊したり、いい加減な情報に飛びついたりするわけです。でも、何年も探し続けているのに、まだ目に見える形での「幸せ」はやってこない。それに疲れてしまうんです。

 そもそも「幸せ」には2通りあって、一つが「条件付き幸せ」であり、もう一つが「無条件幸せ」と名付けられるもの。そして多くの人は「条件付き幸せ」を一生懸命に探し求めるわけです。例えばお金という条件があれば幸せと錯覚する。恋人という条件があれば幸せと錯覚する。

 そしてそのような「条件」を運んでくれる何かを延々と探し求めるわけですが、なかなか見つからない。ある時、スピリチュアルな情報の中に、「○○をすれば幸せになれる(幸せの条件を手にできる)」があるのを見つけたとします。例えば「ありがとう1万回」「トイレ掃除」「満月通帳」などなど。その時はちょっとだけ得した気分になって、試してみるのですが、なかなか思い通りの「幸せ」が実現されない。

 結局、この「条件」ってのは、いわゆる「内的世界」の書き換えに過ぎないわけです。例えば「お金」があると「幸せ」になれるという「内的世界」を勝手に構築するわけで、そこで仮にお金が手に入っても入らなくても、何か自分の思い描いた「内的世界」と違っていたら、釈然としない何かを感じてしまうのです。

 逆に自分の思い描いた「内的世界」に近い現実がやってくると、それはそれで満足はするのですが、対岸には「不幸」という存在がある以上、どこかで不安はぬぐえません。「教祖」的な存在とは、その「内的世界」を操作してくれる人のことを言い、占い師、チャネラーなどもそんな役割があります。

 ただ、それ自体が「悪い」わけではありません。その人が幸せになるような「内的世界」を作ってくれるのであれば、それはそれでいいのかもしれません。ただ、いつまでもその人(教祖など)が「幸せ」という「内的世界」を作り続けてくれる保証はどこにもありません。自らの「内的世界」の自由を完全に「教祖」に委ねてしまうとどうなるか。

 今度はその「内的世界」が「マネー」に変化することがよくあります。つまり「献金しなければ幸せになれない」などの新たな条件付けです。ですが、その時点でその人は「教祖」に「内的世界」の自由を奪われてしまっているので、献金なら献金に応じるしか「幸せ」になれないのです。それが危険だと私は言うのです。

 先ほど「事件」の話をしましたが、件のチャネラーさんも他人の「内的世界」を操作することが仕事となっています。そして「幸せ」な「内的世界」を作ってくれた人は、完全にそのチャネラーさんに自由を奪われていることになり、その人が例えば反社会的なことをしたとしても、それを正当化してしまうまでに催眠にかかってしまうのです。
 
 ですが、幸いにも私はその人から「内的世界」の自由度を奪われることはなかったので、その人の「予言」の通りにはなりませんでした。もしも自由度を奪われていたのならば、その人の「言う通り」になる確率が格段に高まるのです。

 いわゆるスピリチュアルブームの本質はここにあります。つまり江原啓之をシンボルとする、「内的世界の操縦士」に、自らの「自由」を投げ渡してしまい、その人のなすがままにされてしまう。確かにそれが「幸せ」の「内的世界」を作ってくれている間はいいかもしれませんが、自由が自分にない以上、いつもでも「不幸」に傾く可能性はあるし、献金など新たな条件付きでの「幸せ」へと姿を変えてしまうことだったあるのです。ですので、ブーム終焉の理由としては、まさに「自分の内的世界を他人に操縦されることへの疲れ」がまん延したためだと、私は分析しているわけです。

 その意味で、人々は「アセンション」しなければなりません。それは他人に「内的世界」の自由を奪われることを阻止しながら、「無条件幸せ」を手にすること。では、「無条件幸せ」とは何か。それがまさにこの世をありのままに見ることであり、いかなる内的世界にも左右されない、真にリアルな世界へとつながることなのです。

 今日のユーストでも言ったのですが、「雨が降った」はそれ以上でも以下でもなく、そこに人は「憂鬱」とかの「内的世界」を反射的に構築してしまいます。そうではなく「雨が降った」の「ありのままの世界」はまさに「雨が降った」であって、そこには何の価値判断もなく、ただ、現実に生きている自分がいるだけ。そのことをサレンダーと言ったり、南無と言ったりします。

 例えば「余計な心配」もまた「内的世界」ですよね。「失敗するんじゃないか」などの心配のこと。でも、その心配をしている「今ここ」の私は、まだ失敗していません。それがリアルな世界であるにも関わらず、人間はすぐに「心配」という「内的世界」を作ってしまい、自分で自分を勝手に「不幸」にしてしまう生きものなのです。

 私たちがまずは立脚する地点とは、まさに「今ここ」の世界であり、そこにこそ何の価値判断もない「無条件幸せ」が存在するのです。その上で(つまりメタの地点から)、「内的世界」を他人に明け渡すのではなく、自ら自由自在にそれを構築することができます。

 例えば「雨が降っている」という「今ここ」の世界があるとします。それは「雨が降っている」だけの現実があるだけで、幸も不幸もありません。それを「見た」上で、「では、このことに『幸せ』という色付けをしよう」と思うのは自由だし、それが本当の意味での陽転思考だと言えるのです。

 「不幸」に対する「幸せ」があるのではなく、まずは「無条件の幸せ(あるがまま・今ここ・すべては一つ)」に立った上で、目の前の「世界」を自由自在に色付けする。それが「ツイてる」の本質であることは言うまでもありません。
 
 以上、ご理解頂けたでしょうか。文章にすると、どうしても言いたいことのほんの一部しか伝わりません。ですので、これからもユーストリームなどのソーシャルメディアをフル活用しながら、「真実」を伝えていこうと思っています。次回は9月9日(木)の22:30から。テーマは「天命」について。ありがとうございました。

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Commented by sachio at 2010-09-07 23:04 x
>「雨が降っている」

もっと言えば、「雨」や「降っている」などの、言葉や概念、観念なども全く生じていないのではないですか?

ただ感じるまま?
でも、感じた時点で観念は生じているのかな?
by katamich | 2010-09-06 23:39 | ■精神世界 | Comments(1)