悟りへの道 2010.9.1

-人生を変える100日ブログ(32日目)- 

 今日から9月。いえ~い。2010年も3分の2が終了。先日の5日間のワークに参加して、何だか確実に「流れ」が変わったような気がしています。そろそろ涼しくなってきたので本の執筆にも本腰を入れたいところ。今考えているのが「願望実現」のグランドセオリーについて。この通りにやったら確実に願望実現するってセオリーをまとめたくなりまして。そしてもう一つは「悟り」について。それは今回のワーク参加で降りてきたこと。場合によってはNLPをいう文字を入れてもいいと思います。

 あ、それから言い忘れてましたが、8月24日に東京でやった「願望実現セミナー」の音声と資料を提供することになりました。今まで何度も録音や録画のリクエストを頂いてきたのですが、そろそろその辺のことも考えようかと思って。そのセミナーではNLPの「8フレームアウトカム」というスキルを中心にお話していますが、もちろん雑談も多く、おそらくそれはそれでためになると思います。音声を聞きながら資料のワークをすれば、確実に願望実現できる内容。基本的に私は自分で「実体験」したことしかセミナーにはしません。ですので、最低でも3回は録音を聞いて、ワークをして頂きたいと思います。申し込みをすれば即座に返信メールが来て、その場でダウンロードできます。料金は後払い。皆さんを信じています(笑)


音声教材:願望実現NLPエッセンスセミナー 


 それからも一つ告知。9月2日(木)22:30より「第四回宇宙となかよしUSTセミナー」を開催します。録画してくれ~というリクエストを頂きますので、一応、しようかと思っています。ただ、無意識的にヤバイ話をしてしまったら削除するかも。その辺は「無意識ちゃん」のみぞ知る。テーマは「悟り」ね。

 さあ、昨日の続きでもしようかと思っているのですが、話が難解になりつつありますね。ちょっとまとめますとこうなります。




<用語解説>

4T:V(視覚)・A(聴覚)・K(触覚)・O(嗅覚/味覚)の4つの感覚のこと ※Tとはタプル(元素)のこと
4Ti:4つの感覚が「内面」を向いている状況  例:昨日のカレーを思い出している時
4Te:4つの感覚が「外面」を向いている状況  例:目の前のカレーを食べている時
(ちなみに読み方はフォーティーアイ・フォーティーイーと読みます)

4Ti=催眠状態
4Te=完全なる覚醒で「今ここ」を生きている状態




 ただい、私たちは基本的に完全なる4Teで生きていることは極めてまれ。目の前のカレーを食べている時でも、「このカレーは美味しい」と思った瞬間に「4Ti」に入ってしまうので。実際、カレーはそこにあるだけで、「美味しい/美味しくない」などの判断は人間がしているだけ。その判断こそが4Tiなのですから。

 これは「滝行」も同じなんですよね。滝は単にそこにあるだけ。その滝に打たれているだけ。その限りにおいては4Teなのですが、そこで「冷たい」や「寒い」などの「思い」が入った瞬間、4Tiになるのですから。

 ですので、私の「滝行」とはまさに「4Te」になるための修行だったのだと改めて気が付きます。そして4Teを極めると、そこにあるのはただ「あるがまま」の世界であり、物理学的には「量子」、哲学的には「空」が見えてきます。すなわちすべては「量子/空」であるので、目の前のパソコンも、マンション一階にある自転車も、すべて「量子/空」であるがゆえに、「すべてはひとつ」となるのです。そこでこのような定式が成り立つわけです。


4Te = 今ここ = あるがまま = 量子/空 = すべてはひとつ(ワンネス) = 悟り・覚醒 = 絶対

 逆に4Tiについては、

4Ti = いつどこ = 思い込み = 記憶・物質 = 分節化された内的世界 = 催眠 = 相対

となります。


 ここで「絶対⇔相対」と書きましたが、4Teは「すべてはひとつ」であるがゆえに、絶対的なもの。それに対して4Tiは内的世界であるがゆえに、どのようにでも書き換えが可能なので相対的。昨日の例で言えば、「サンダルの鼻緒が切れた」という現象において、絶対的なのは「サンダルの鼻緒が切れた」という事実のみで、それが4Teの世界。ですが、ここで「不吉だ」とか「古くなった」とか判断してしまうのは4Tiの世界のことで、いくらでも解釈は可能になっています。

 そして、私たちの日常生活では何らかの判断をせずに過ごすことはできないので、24時間のうちほぼすべてが「4Ti」にいることになります。ですので、よりよい生活を送るには「よい4Ti」を持てばいいのであって、「悪い4Ti」を持っているのなら、それを書き換えればいいだけ。場合によっては催眠や洗脳の手段を用いて書き換えることも可能です。

 ただ、何度も言うように、私たちは多かれ少なかれ常に「催眠(洗脳)」にかかって生きています。もちろんそれは一概に悪いことではありません。例えば昔、ある人が「空を飛べたらいいな~」とイメージングした結果、飛行機が生まれました。そのイメージングは完全なる4Tiです。だって目の前に飛行機がないのに、頭の中だけで作りあげてしまうのですから。

 そして面白いことに、4Tiで作られたことは現実になりやすく、その手法を「願望実現」と言ったりします。例えば上で紹介した「8フレームアウトカム」などは幾重にも4Tiを積み重ねて、それによって現実を操作します。それで願望が実現すればそれはそれでいいわけです。

 しかしながら良きにせよ悪しきにせよ、4Tiに生きている限り、「幸せ」も「不幸」もまた相対的であり、私たちはそのような表面的な「幸・不幸」に延々と弄ばれることになります。ついでに言うと、常に「不幸」な4Tiの状況のことを「蟻地獄」と言い、もがけばもがくほど深く不幸になってしまいます。逆に常に「幸せ」な4Tiの状態にある人は、それはそれでいいのですが、どこかで「不幸になったら・・」などの一抹の心配を持ってしまいます。

 もう一度言いますが、4Tiにいる限り、私たちの幸せも不幸も「相対的」であり、「絶対的なる幸福」を手にすることはできないのです。そこでもし、そのような「絶対的なる幸福(至福)」を目指したいのであれば、4Tiから4Teへと進む必要があります。実はそれは非常に簡単。手術か何かしてもらって、海馬なり脳の記憶中枢を破壊すればいいのですから。するとその人は永遠に4Teにいることができます。その意味では植物状態になった人間は「幸せ」なのかもしれません。

 ただし、、、私たち人間はそれをして「幸せ」だと思うことはできません。なぜならそれは単に動物や生まれたての赤ちゃんに退化するだけであって、立派な前頭葉を持った人間が目指すところではないからです。では、私たち人間が絶対的な「至福」を手にするにはどうすればいいのでしょうか。それが昨日も言った「メタ」に立つことなのです。

 それはまさに4Tiと4Teの「弁証法的止揚」によって得られる世界、、、などと言ったら余計わかりにくいですよね。ようするに4Tiと4Teを超越した視点で見る、、、という状態のことなのです。例えば「サンダルの鼻緒が切れた」という現象に対して、「不吉だ」と4Tiが発動したとしても、「私はサンダルの鼻緒が切れて不吉だと思ってしまった」と客観的に見ることができる状態。決して「不吉だ~!」と大騒ぎしないのです。カレーを食べて「私は美味しいと思っている」と客観的に見ることができる状態。ただ、そんなに無感動に食べても楽しくないので、「メタ」の位置に立ちながらもなお、「めっちゃ美味しい~!」と大騒ぎできるのもまた悟り。

 一方、滝行の例で言うと、「私は冷たいと思っている」と冷静客観に4Tiを観察できることもまた悟りであり、さらには「私はただ滝に打たれている」と4Teをかみしめるのもまた悟り。ただ、大小で言えば、4Tiに対するメタ視点は「小さな悟り」であるのに対し、4Teに対するメタ視点は「大きな悟り」と言えるのかも知れません。

 滝の話で言うと、あの氷点下の冷たい滝で、何の冷たさも感じずただ打たれている私を発見した時、そこにあったのは「至福」そのものだったのですから。さらに2005年5月のインドはラダックの丘の上で般若心経を1000巻唱えた際、この世はすべて「感謝」でできていると悟った経験は私にとって「大きな悟り」だったと言えるでしょう。そこではあえて「感謝」と言っていますが、世の中には「いい」も「悪い」もなく、すべてが「愛」であり「感謝」でしかない、すべてはひとつであると言う悟り。これはまさに世の中を4Te的に見た瞬間だったと言えるでしょう。

 結局のところ「悟り」とは何かと言うと、それは「私は悟っている(4Teにいる)」ことを悟ることなのです。「私は悟っている(4Te)」そのものの状態は動物や植物状態と同じこと。人間にとっての悟りとはまさに「私は悟っている」ことを悟ること。4Teのメタの視点から悟ることを、本当の意味での「悟り」と言うのです。

 ただ、悟りの道はそれだけではなく、「私は悟っていることを悟っていることを悟っている」という「メタメタ」の状態もあり、さらに「私は悟っていることを悟っていることを悟っていることを悟っている」など「メタメタメタ」の状態もまたあるのです。と言うことは、この「メタ」の視点は永遠に存在することであり、極限のメタに対する永遠なる旅がそこにある。

 そのことを般若心経では「ぎゃーていぎゃーていはらそうぎゃーてい」と言ってるのであり、北岡訳では「イッてイッてイキまくれ!」となるのです。メタメタメタメタ・・・と行くと最後はどこに行くか。もはや「神」としかあり得ない。「宇宙」と言ってもいいです。それはもしかしたら「愛」とか「感謝」なのかもしれない。

 繰り返し言いますが、単なる4Tiとしての「幸福」や「不幸」に翻弄されている限りは、真の「至福」には到達しないってこと。幸せであることは不幸の可能性がある。不幸であることは幸せの可能性がある。私はその「二元論」を超越することにこそ、「不幸の可能性が存在しない幸せ」を見出すことができるのではと考えています。

 それをもっとわかりやすく言うと、「すべてはうまくいっている」だったり「すべては必然ベスト」だったり「どっちに転んでも大丈夫」だったり「すべては感謝」だったりするのですが、その状態につながること。

 では、どうすればその状態(メタ)につながることができるのか。滝行か?瞑想か?坐禅か?苦行か?快楽か?日常か?・・・いろんな方法があると思います。しかしもし、一言でそれを言うならば、それが「南無阿弥陀仏」なのです。「南無阿弥陀仏」と言えば救われる。これなのです。

 なんて言うと「あれ?」と思う人がいるかもしれませんが、別の言い方をすれば「サレンダー」すること。「サレンダー」とは絶対的に帰依すること。南無すること。宇宙に身を委ねること。坐禅では二息を継ぐなと教えられます。今、物音が鳴ったとします。普通は「何の音だろう?」と気になりますが、それは「音→気になる」と二息を継ぐことに他ならず、現実的には「物音が鳴った」しかありません。物音が鳴ったのだから鳴ったままにしてしまえ、と言うのがサレンダーです。

 「南無阿弥陀仏」だって本当はそんな意味。阿弥陀さんが自分の不幸を取り除いてくれるわけでもなく、不幸の状態は不幸の状態があるだけ。でも、すべてを阿弥陀さんにお任せすることで、「起ることしか起らない」ことに気が付くわけです。もちろん問題に対しては善処する必要がありますが、それも含めてすべては起こっているだけ。そのような境地に立てば、もはや不幸なる概念さえなくなり、絶対的な至福がそこにあるだけなんです。

 この辺のこと、、、お分かり頂けるでしょうか。私が「滝行」で得た境地もまたサレンダーでした。滝に対してあらがってもダメ、NLPのテクニックでごまかしても根本はダメ。最後に力を抜いて、完全に滝にお任せした時、初めてその苦しさから解放されたのです。それは理屈ではなく、私の体験そのものなのですから。

 てなわけで、ごちゃごちゃと小難しい話ばかり続きましたが、まずはこの辺で。続きはユーストで直接語ろうと思いますのでお楽しみに。ありがとうございました。

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Commented by yas at 2010-09-22 00:21 x
こんにちは。ホオポノポノのリンクからこちらにお邪魔させていただきました。悟りへの道を読んで思わず声をあげてしまいそうになりました。はっきりと文字で理解できたというか... なんとなく感覚として理解はしていたのですが、こんなに文字でしっかり”わかった”のは初めてです。分かりやすく説明して頂いてありがとうございます。私はまだメタの状態には遠いですが、その状態を目指して進んでいこうと思います。これからもブログ楽しみにしていますね。ありがとうございました。

by katamich | 2010-09-01 23:39 | ■精神世界 | Comments(1)