リアルな世界 2010.6.27

 今日も5時に起床して滝行。外は明るく温かいのですが、福岡もようやく梅雨らしい季節、と言うかかなりの豪雨で滝の水量も多く怖いくらいでした。ちなみに滝場までの運転中は、ずっと本や音声セミナーを聞いています。それが楽しみ。今日は弘法大師空海に関するお話をずっと聞いていました。で、今日は午前から午後にかけて、バーゲンにお付き合いしてきました。ツレとちびQと三人で。私は買うものもないので、ずっと本屋で立ち読み。私の本が一冊だけ書棚に刺さっていましたが、表紙がボロボロに。買って帰ろうかと思いましたが、それだけ多くの人に立ち読みしてもらっているとして、喜んで書棚に戻しました。

 そう言えば本を出してから半年になりましたが、私も成長しているわけで、今読むともうちょっと表現上の改善の余地はあるとか、いろいろ反省すべき点はあります。ま、多くの作家さんも同じような思いでいるだろうから、それはそれで自分の成長を喜びたいと思います。ただ、基本的な考え方は全然ぶれてない。それもまた嬉しい話です。

 ところで、滝行に入るといつも感覚が鋭くなって、いろんなヒラメキがやってきたり、目の前の景色が違って見えるようなことが良くあります。以前は単なる変性意識だとか、眠たいからだとか思っていましたが、今はしっかりと理解しています。単純に言えば、大脳と小脳の関所となっている「視床」の働きが弱まり、小脳(無意識)から大脳(意識)へとより多くの情報が流れ込んでいるからだと。そしてその「視床」の働きを弱めるのが、A10神経を経由して分泌されるドーパミン。滝行に入ると、ドーパミンの分泌を感じるように今はなっています。ある意味、麻薬かな。

 そうそう、昨日紹介したロバート・ハリス氏の「エグザイルス」ですが、まだ途中までしか読んでないながらも、面白いか所をいろいろ発見することがあります。この本はハリス氏の自伝であり(部分的に怪しいか所もありますが)、大半は事実に基づいて書かれてあります。その中で、ハリス氏がいわゆるドラッグパーティに参加して、きまってしまった時の話。引用します。


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初めてのトリップで、僕は神に近づいたわけでもないし、何かに開眼したわけでもない。だた現実というものが、今まで信じていたようなものでないはけっしてないということを、心と五感で確信した。

僕たちはこの世で機能していくために、これは木、これはテーブル、これは地面、これは自分と名前をつけ、一つ一つ区別し、独立した存在として整理している。だが、実はすべてのものが流れるような意識であり、光り輝くカオスなのだ。そのことが理解できた。

生まれたばかりの赤ん坊の目は、常に驚きに満ちたように見開き、視線はあるひとつのものに固定せず、せわしくなく泳いでいる。きっと、この眩しく流れる世界を見つめているのだろう。僕はこの夜、その原始の光景をもう一度みることができたのだ。そして僕の身体は、その感動のエクスタシーに震えたのだ。

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 この文章を読んで、なんだこりゃ、オレも知ってるぞ、、、ってのが所見。ここでは方法がドラッグなので、やや怪しい感じがするだけで、これは至って普通の世界の描写じゃないですかって。実は今日、バーゲンでひとりで本屋にいる時、何度となく自分と世界との境目がなくなるような体験をしたのです。本ってのはいわゆる「情報」と言えるのでしょうが、それ以前に、私たちの世界そのものが「情報」に過ぎないと、そんな体感をしていたのです。

 例えば「A」という文字を打ち込みましたが、これも一つの情報です。「A」とはアルファベットの最初の記号であったり、キスのことだったり(古い?)、私の会社のロゴであったりしますが、このブログに写っている「A」という文字(図形)自体は、小さな「ドット」の集合体に過ぎません。そのドットが集まって「A」という文字を浮かび上がらせているだけ。さらに抽象度を上げていくと、「A」という文字を「キーを押したら出てくる」ようにしたのは、パソコン内のプログラムであり、アルゴリズムです。それもまた「情報」です。さらにそのアルゴリズムを成立させているメタ的な「情報」もあるわけで、さかのぼっていけば、永遠にそこに「情報」があるだけとなるのです。

 同様に、「私」というこの存在も、単なる「情報」の集合(?)に過ぎず、同じ「情報」であると言う意味において、目の前のパソコンも、別室で寝ているちびQも、南アフリカの日本チームの本田選手も、矢沢永吉のマイクスタンドも、台所のゴキブリも、マイルス・デイヴィスの音楽も、曲がったスプーンも、、、すべては「情報」であり同じひとつのものなんです。そしてそんな世界に生きる実感を持つことは、ハリス氏の言うように、ある種のエクスタシーなのかもしれません。

 滝行中、特に冬の過酷な滝行中、しばしば滝の水と私との区別がつかなくなる瞬間があります。その時ってのは、おそらく完全に「自我」を捨て切って、時間の感覚もない、空間の感覚もない、ただひたすら「今ここ」の世界があるだけ。その世界に身を投じている瞬間は、何ものにも例えがたいエクスタシーな瞬間となっているのです。

 最近、いわゆる「願望」を100個以上書きましたが、それらもすべて一つの「情報」に過ぎません。そしてそれらの「情報」には、いわゆる緊急性もなければ、重要度もありません。単に私の前頭葉から出てきた、同じひとつの「情報」に過ぎないのです。そして書いておきながら言うのもなんですが、叶っても叶わなくてもどっちでもいい。ただ、そこに「情報」として記されているだけであり、叶うものは叶うし、叶わないものは叶わない。そして「叶う」と「叶わない」という一見逆に見える価値自体も、実はまったく同じひとつの意味なのです。ただ、そこに印字された「情報」があるのは事実なので、それ自体に何かの意味があるかもしれない、、、と考えるのは自由です。

 と言うか、すべては同じひとつの「情報」でできています。「同じひとつの情報」なんて書き方すると、何か大きなものをイメージする人もいるかもしれませんが、「情報」それ自体に大きいも小さいもありません。「点」という情報が単なる存在である以上、「点」の集合である「線」も「面」もまた、単なる存在であり、一つの「情報」なのです。

 色即是空空即是色。般若心経の有名な一節ですが、ここでいる「空」こそが、私の言う「情報」そのものであり、その「情報」に何らかの集合性を持たせ、何らかの意味なり、何らかの存在を形づくらせたそのものが「色」なのです。本来はすべて「空」であり、単に「情報」が流れているだけ。そこに何らかの「意識」が乗ることで、そこに様々な「色」が生じ、それがいわゆる目の前の世界、別の言い方をすれば「偽りの世界」を作っているわけです。

 多くの場合、私たちは「偽りの世界」に埋没しながら生きていますが、ある瞬間、そうでない「リアルな世界」を触れることがあります。それいわつる「空」を見ると言うことであり、禅の世界では「見性」、もっと一般的な言い方をすれば「悟り」や「目覚め」という言葉になるのでしょうか。

 量子力学で言うところの量子や素粒子も、「空」であり「情報」なのですが、そこの何らかの意識なり認識をした瞬間、「色」や「物体」が生じ、この世の「機能」なるものが連鎖するわけです。そしてその「機能」のことを、私流に言えば「実現」であり、意識なり認識のことを「願望」と言うことができるのです。

 と言うわけで、ちょっと抽象的な話題になってしまいましたが、何となくご理解頂けるでしょうから。滝行に入ると、この手の話が増えてしまう傾向があるってこと、その辺、ヨロシク!

 ってことで、明日も早いの寝るとします。ありがとうございました。

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by katamich | 2010-06-27 23:39 | ■精神世界