変わらないオレ 2010.6.11

 早朝に新宿に到着。さすがに人が多い。目の前に「吉野家」があったので、朝食にと入る。つい先日、いわゆる「ゆでたまご吉野家確執」の一件から、もう吉野家には行かん!とか行ってたのに言動に一貫性のない男でございます。で、それからネットカフェでブログの更新。その後、ちょっとアポをこなして、3時から接近戦。

変わらないオレ 2010.6.11_b0002156_6343693.jpg 「接近戦」ってのは栢野克己さんのパクリですが、ま、単なるオフ会ってこと。ただし、告知は原則その日の数時間前。メディアはミクシイとツイッター。しかも平日ってことで、何人集まるかな~とか楽しみにしていたら、なんと私含めて3人の「接近戦」となりました。しかも昼間からビールで約2時間半。最初から熱い話になりました。つくづくサラリーマンを辞めてよかったっす。。。

 そう言えば、今更の話ですが、私の社会的な肩書って「代表取締役社長」なんですよね。実質的にはこれまでとなんら変わらないのですが、やっぱり個人事業主よりも「社長」の方が響きはいいですね。社長になるのに22万円かかりましたが(22万円しか!)、この意義は大きい気がします。別に「肩書」で勝負するわけではないのですが、やっぱ初対面で名刺を差し出した時の反応は違いますものね。ま、私にとっては社会的にうまくやっていくためのツールに過ぎません。

 ただ、そもそも本質的な自分ってなにも変わってないんですよね。生まれてから今までずっと。私も年に1~2度、高校や大学時代の友達と会って飲むことがあるのですが、その時、必ずと言っていいほど「あいかわらずやな」と言われます。むしろこの言葉を言われんがために同窓会など参加しているようなもの。何が「あいかわらず」なのかはわかりませんが、そのような説明できない「何か」こそが本当の自分であると思うのです。そしてそんな自分を誇りに思うことがあります。

 目覚めとは何か。何度も言うようですが、それは断じて神秘体験ではありません。むしろ「な~んだ、こんなことか」って感覚に近い。そしてそれをあえて言葉で定義付けすると「あらゆる条件から『自由』になること」を意味します。

 人間にとってこの「条件」付けは非常に根深いものがあります。たとえば「先生」や「社長」などと呼ばれる人に対しては、なぜか無自覚に偉い人みたいな錯覚を得ることがあります。あ、思い出した。前の会社で働いている時、まちづくりのワークショップみたいな仕事をよくしてたんですよね。そこでは、その町の住民相手のファシリテーターの役目をしてたのですが、ある時、ある年配の住民の方に「〇〇さん」と呼びかけをしたのです。するとその人、なぜかそれから私に敵意むき出しの態度をとるようになってきたのです。別に悪いことはしてないのに、、、と思って観察していたらわかりました。その人は元教員で、24時間、「〇〇先生」と呼ばれることに慣れていたのです。それから私も「先生」で呼ぶようにしたら、敵意むき出しがなくなりました。

 でもまあ、今考えると、「先生」と自分とを長年の条件付けによって同一化してしまうのは、何とも切ない感じがします。その人は「〇〇さん」ではなく「〇〇先生」と呼ばれることで、自らのアイデンティティを確認するかしかないのですから。それは会社の肩書なんかでも同じ。よく笑い話のように紹介されるのですが、ハローワークや面接なので「何ができますか?」と聞かれて「課長ができます」と答えるなんて話。よくよく笑えません。

 このように私たちってのは、大なり小なり何らかの肩書など「条件」を引っ提げて毎日を生活しています。私で言うと、、、〇〇高校〇〇大学卒業、元〇〇社員、研修・セミナー講師、先生、ブロガー、作家、滝行者、禅行者、社長、ちびQの父親、夫、息子、旅人、などなど様々な「条件(肩書)」を引っ提げて生きています。しかしそれらの「条件」はすべて変わる可能性のある条件です。もちろん「元(もと)」という条件を付けるならば、変わらないと言えなくもないのですが、少なくとも現時点ではどんどん変わりうるもの。

 今はセミナー講師とかしていますが、それも10年後はわかりません。社長だってそう。息子という条件も親が往生すればなくなります。実は私が私だと思っている条件のほとんどすべてが諸行無常で移りゆくものなのです。

 しかし、たった一つだけ変わらないものがあります。それがまさに自分という存在。その存在のことを便宜的に「オレ」と呼ぶことがありますが、私の言う「オレ」とはまさに「本当の自分」のこと。なので私が「オレ」という時は、より本当の自分に近いってニュアンスで話をしています。公的な場所などでは、もちろん「私」と言いますが、それとて何らかの条件のもとでの自分だったりします。その意味で「オレ」と言っても許される場こそがオレなのです。このブログでは「私」が基本ですが、時々、オレが登場します。その時はよりリアルな言葉だと思っていいです。

 それはさておき、たった一つだけ変わらないもの。それを客観的に示した言葉が「あいかわらず」だったりするのでしょうが、あらゆる条件を排して、もっとも純粋な自分(オレで言うオレ)に出会ったとき、その人は「目覚めた」と言えるのでしょう。そしてそうなると何も怖いことがなくなります。「先生」と呼ばれ続けてきた人が「さん」で呼ばれると途端に不安になるようなこともなく、絶対に変わらないもの、そう、、、唯一絶対の存在に触れることで、その人の人生はもっともっと確かなものになると思っています。

 しばしば「すべてはひとつ」という言葉が聞かれますが、あらゆる「条件」にしがみついている限りは、決してそのことを体験することはないでしょう。「先生と生徒」、「夫と妻」、「親と子供」、「私とあなた」、、、など様々な「条件」が日常には立ちふさがっていますが、このような条件が一切なくなった時、本当の意味で「すべてはひとつ」を体験することになると思います。

 しかし逆説的ながら「すべてはひとつ」を知ることは、確たる自分を知ることにもつながります。そしてあらゆる人はその確たる自分、本当の自分を持っています。課長と部長では確かに部長の方が偉いです。しかし「本当の自分」というものにおいてはいかなる差もありません。「悟り(さとり)」とは「差取り」だと言って人がいましたが、まさにそう。「本当の自分」においては、寸分足りとも差はなく、そしてすべてが素晴らしいのです。

 私は明日から2日間のセミナーに入ります。もちろん普段はいろんな肩書を持って生活している人ばかりだと思います。しかしこの2日間はいかなる条件をも取っ払って、誰もが「本当の自分」に生きる、そのきっかけを作ることができればと思っています。

 絶対に変わらない唯一普遍の自分。その存在と完全に同化すること。もしかしたらそれが人生において最も大切なゴールでありスタートなのかもしれません。と、言いながらも、普段は肩書等で生きる自分がまだまだいますけど、それはそれで社会的には必要なこと。

 しかしそれはそれとして、誰もが「本当の自分」として生きる、そこに立ち戻れる時を持つことができれば、世の中はもっともっと平和に楽しくなるんだろうな~とか思ってます。今日はこの辺で。ありがとうございました。

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Commented by kaorin at 2010-06-12 09:23 x
おはよ~ございま~す。

ポチッとボタンのコメが「オレ」だったので、押しときましたぁ~。(笑)
by katamich | 2010-06-11 23:39 | ■人生哲学 | Comments(1)