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見性 2010.4.10

 坐禅合宿2日目。初日は夕方に道場に「入山」をして、しばらくは作務(掃除・庭仕事など)。夕食を済ませてから、今回の合宿(参禅会)の開始の儀となります。すべて作法に則って、お茶を頂き、話を聞き、それから「静坐」です。「静坐」ってのは、読んで字のごとく、静かに座っていること。座禅を組みながら。初日の「参禅」は中止となり、10時には「開枕(消灯)」となりました。

 そして今日は朝5時に起床。ちょっと日が出始めている時間で、前回の一月とは全然違いますね。当たり前ですが。すぐに布団を上げて掃除。5時半頃から「静坐」が始まり「参禅」となります。「参禅」ってのは、調べたところ大きく2種類あるようで、それぞれ「臨済宗」系と「曹洞宗」系。私が参加しているのは「臨済宗」系で江戸時代の白隠直系の禅です。こちらは「公案禅」と言って、老師からの「公案(禅問答)」に答える形で修行が進みます。一方の「曹洞宗」系は道元の「参禅は坐禅なり」の言葉の通り、問答などはなく、ひたすら座り続けること(只管打坐)がすなわち参禅となります。もちろんどっちが正しいとか良いってことではなく、私にご縁があったのがたまたま「公案禅」だったってことでしょう。

 老師との問答については門外不出ですので、いくら私でもそれをブログに書くわけには行きません。書店に行けば「公案集」とか「禅問答」などの本はいくらでもありますし、ネットでも拾えるとは思います。ただ、一つだけ言えることは、それは「知識」ではどうしようもないってこと。重要なのは「体験」であって、禅や仏教に関する本をいくら読んでも「体験」がなければまったく意味がありません。

 そしてその「体験」による一つのスタートのことを「見性(けんしょう)」と言います。「見性」とは読んで字のごとく「性」を「見」こと。悟り、目覚め、覚醒なども同じ意味なんでしょうが、現状としては、今、様々なスピリチュアル情報が錯綜していますので、いわゆる「見性」と「悟り」や「覚醒」を同一視していいかには疑問が残ります。本来は同じ意味なんでしょうが、「悟り」や「覚醒」と言うと、人によっては「神秘体験」のようなものをイメージする人がいるから。特にスピリチュアルかぶれはそう理解するでしょう。アカシックレコードとつながった、釈迦やイエスからメッセージを受け取った、霊界を見た、、、などなど。そんなのは本来の「悟り」でも「覚醒」でもなければ、もちろん「見性」でもありません。

 とりあえずはウィキペディアの「臨済宗」のページの「悟り」から引用紹介したいと思います。

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一般に禅宗は知識ではなく、悟りを重んじる。禅宗における悟りとは、生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付くことを言う。このため、唐代の祖師たちは苦闘を重ねながら悟ってきたのである。しかし宋代以降、悟りを得るための多くの技法が考案されてきた。坐禅(瞑想とは異なる)、公案(知的な理解を超えた話を理解すること)、読経(お教を読むこと)、作務(普段の作業)などの修行を既に悟りを得た禅師の元ですることで、悟りが得られるようにメソッド化されてきた。悟りは、ロウソクの火が、消えているロウソクに伝わるように(伝灯)、師から弟子へと伝わるとされる。それは言葉(ロゴス)による伝達ではない。それゆえに正しい禅師を選ぶことが肝心とされる。それは悟りを得ている事だけではなく、自分の個性に適合している禅師を選ぶという意味もある。しかしながら、悟りを得た禅師が指導して悟らせるのではない。師を持たずに悟りを得たゴータマ・シッダッタ(仏陀、釈尊)を持ち出すまでもなく、唐代の祖師たちは、師匠から教わって悟ったのではないのである。悟りを言葉により定義することは出来ないが、言葉を始めとしていろいろな方法で悟りの境地を表現することはできる。そのため特に日本に伝わった後、詩や絵画を始めとした芸術的な表現の上に悟りが表現されており、その香りを味わうことができる。芸術以外にも、茶の湯や生け花を始めとした振舞いなどにも表現されており、振舞いをたどることによって、悟りの世界を味わうという手段も生まれている。
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 私も概ねこの説明で納得しています。「見性(悟り)」は師から弟子に伝えられるだけのものでは決してありません。釈迦を始めとして自然と悟った人はいくらでもいるでしょうから。ただ、今の世の中を見ていると、スピブームと同じくして「悟りブーム」みたいな現象があることも感じており、そして所々に「悟った!見性した!覚醒した!」と言ってまわって、自らを「教祖化」したり、悪徳商法に結びつけたりする輩が後を絶たないのも事実。その意味では江戸時代の白隠禅師から受け継がれる正統の禅老師によって、「見性」の担保を得ることは、今だからこそ意義あることだとも考えられます。
 
 もちろんそれだけが「見性」ではなく、禅や修業を通してでなくとも、悟りを開いている人はたくさんいます。例えば大リーガーのイチローなんかそう。彼がバッターボックスに立つ姿を見ると、どんなに偉大な禅師や行者に引けを取らない立派な風格を感じさせます。私は書や絵画についての造詣はないのでよくはわかりませんが、おそらくは芸術を極めることと悟ることは同義だと思えます。あ、音楽なら多少はわかります。例えばピアノのウラディーミル・ホロヴィッツ。あのピアノを聴くと、間違いなく悟ってるとしか言いようがありません。どんな人をも感動させる力があります。ジャズならばマイルス・デイビス、ジョン・コルトレーン、バド・パウエル、ミシェル・ペトルチアーニ、、、などなど、一流の芸術家は確実に「見性」しています。

 だからと言って、一流でなければ「見性」できないわけでもありません。「生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付くこと」が「見性(悟り)」であるとすれば、それはおよそ生きている限りすべての人が体験しうること。サラリーマンであっても、専業主婦であっても、学生であっても、誰もが「見性」することはことは可能だし、誰もがその方向に進んでいることも事実。一方で「見性」に至るまでの一つの「システム」として「参禅」を位置づけることはできるかもしれません。

 話を戻しますが、1月に初めて参禅体験をして、老師から一つの「公案」を頂きました。今回はその「公案」に応じる必要があり、それが参禅の大きな目的となります。詳しい話は書けませんが、前回はすべてダメ出し。でも今回、実は絶対的な確信があって参禅にのぞみました。もう、これしかないという境地です。そして「見性」しました。

 ただ、「見性」したと言っても、おこがましくもそれはすでに「知っている世界」でした。「な~んだ!」ってのが感想。そして「見性」するとどうなるか。それがまさに「本当の自分」を生きる上でのスタートであり、「当たり前の世界」に根を下ろすこととなります。

 今、「当たり前の世界」って言いましたが、じゃあ、「見性」しなければその世界に生きることができないのかと言うと、そうでもない。いや、むしろすでにその世界に生きています。誰もが例外なく。しかしもしも違いがあるとすれば「当たり前の世界」でいいんだと思うか、またはもっと違った素晴らしく輝ける世界があるかを求めるかどうか。そして多くの人は後者に生きてます。どんなに頑張っても「当たり前の世界」にしか生きられないのに。

 そして「苦」とはその当たり前の「世界」と、空想上・妄想上・幻想上の「世界」とのギャップによって生み出されるもの。この「空想上・妄想上・幻想上」ってのは、いろいろあって、自分以外のもの、外側から与えられた願望、やりたくないこと(やるべきと思っていること)などを生み出します。

 それが「当たり前の世界」に戻ってしまうと、「ははは・・・」となってしまうのです。極端な話、私はスマップには入れませんが、スマップに入りたい!入りたい!と妄想しまくっている状況から、スマップ?あいつら半分はハゲとるやん!同じハゲなら今のままでもええやん!って境地になるわけです。わかりにくいですか。別にわからなくてもいいですが。

 それ以外にもいわゆるオカルト、迷信、神秘、エセスピなんかの情報に惑わされることもなくなります。正直に言いますが、今、スピリチュアルを仕事にしている人の多くは、坐禅で「見性」することはできないでしょう。なぜなら「見性」しちゃうと、自分の仕事を捨てなければならなくなるから。例えばチャネラー。「天使ガブリエルからのメッセージをお伝えしています」なんて言って、迷えるカモから数万円をだまし取っていることがいかに愚かなことかわかってしまうから。ガブリエルがムハンマド(モハメッド)にクルアーン(コーラン)を授けた天使ではなく、単なる「妄想の産物」だとわかってしまうから。せっかくカモを相手に金儲けしてるのに、見性しちゃうとそれができなくなる。だったら見性しない方がいい、ってなりますよね。

 何度も言いますが、「見性」なんてそんなにすごいことでもなく、世の中には見性している人などたくさんいます。禅や瞑想、修行を経なくても。要するに当たり前の世界に帰ること。空想・妄想・幻想でない本来のリアルな世界に生きている人は皆そうです。イチローは間違いなく見性していますが、彼はただひたすら「行為」を繰り返しただけ。山崎パンって会社がありますが、あのアルバイトは世にも過酷だとよく聞きます。一日8時間なら8時間、ずっと「アンパンにケシの実(ゴマみたいなの)を振りかけるだけ」を繰り返します(今はどうか知りませんが)。もう一時間は経ったかな、、、と思うと、まだ8分しか経ってないじゃん!みたいな時間の経ち方。そのあまりの苦行のため、次々とアルバイトは辞めていき、山崎パン工場の近くに住んでいると、毎日、バイト募集の広告を受け取ります。私の実家の前の家がそうでした。

 しかし中には、そのケシの実の振りかけるだけの仕事を何年もやっている人がいたりします。どうでしょう。間違いなく「見性」していますよね。だって、その人にとっては「ケシの実を振りかけること」だけが最もリアルな世界だと知っているから。そこに「女をはべらせながら酒飲んで金貰える仕事とかあるかも」みたいな「想像」をしてしまうと、途端に「世界」とのギャップができてしまって、続けられなくなります。

 ですので、もしも「見性」したければ、山崎パンのアルバイトをすることです。しかもお金を貰えます。ただ、誰もが山崎パンで働けるわけでもないので、要するに、今やっている仕事を一生懸命すればいいだけ。ですが、誰もがそのリアルな世界に生きているわけでもない。その世界を取り戻すための一つの「システム」として坐禅や参禅がある。私はそのように考えています。

 少なくとも「見性=神秘体験」という情報は早く捨てるべき。神秘を求めている限り、それはどんなに頑張っても「想像・妄想・幻想」の世界でしかないので、最も地に足付いた「見性」から遠ざかってしまいます。「見性」によって知りえる世界とはまさに「今ここ」の最もリアルで当たり前の世界。

 しかしそれは「知識」で得られるものではありません。それは「体験」でしかなく、その体験をした人でなければわからないことかもしれません。そしてその「体験」をしたかどうかが担保されることの一つが「参禅」と言っていいのかもしれません。ちなみに「参禅」での問答は決して外部に漏らしてはならない情報です。今日書いたのは私の「気付き」であって、参禅のレポートでないことだけは念を押しておきます。ですので、もしも今後、「参禅」の機会があったとしても、私のブログなどはまったく参考になりませんのであしからず。

 と言うわけで、今回、無事に「見性」が認められたわけですが、実はものすごい速いペースでの「見性」だったそうです。周囲からも驚かれました。ただ、私は今まで滝行とかインドとか、そんなことばかりしていたので、そこですでに「見性」していたのかもしれません。やっぱり、な~んだ!ってこと。ありがとうございました。

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by katamich | 2010-04-10 23:39 | ■精神世界
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