宇宙となかよし

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Qと申します。読んで頂いた皆さんが笑顔になり、ますますパワーアップできるようなブログを目指しています。

すべて決まっています 2010.3.21

 昨日、ホテルに着いたのが3時頃。そのまま歯を磨いてゴロン。朝7時には自然と目が覚めて、サウナとパソコン。ブログ更新。このカプセルホテルは完璧。漫画もたくさん。

 10時過ぎに出て、12時には千駄ヶ谷駅へ。ミクシィでいきなり「ランチ会」を呼びかけたら3名お集り頂けました。強引な呼びかけにも応じて頂き感謝。初めてお会いする方もいらっしゃいまして、とても有意義な時間を過ごすことができました。

 その後は阿部敏郎さんの「いまここ塾」へ。その前後、今日も何名かの方から「ブログ読んでますよ!」とお声かけ頂きました。ありがとうございます。もしかしたら愛想ない返事したかも知れませんが、そう感じられたらすいません。こう見えても気が弱いので、これからもご愛読どうぞよろしくお願いいたします。

 で、久々の「いまここ塾」だったわけですが(昨年の10月以来)、今日も満員御礼でした。前半は瞑想したり阿部さんのトランストークがあったりなど、東京滞在中の寝不足が手伝ってか心地よくなってきました。面白かったのが、やっぱり質疑応答時間でしょうか。

 その中で印象に残ったのが、「すべては決まっている」という話。これ、ほんとにそうだと思うんですよね。物事ってのは起こることが起こっているだけ。起こそうと思っても起こらない。こんな情報を聞いてしまうと、絶対出てくるのが「じゃあ、何もやらなくてもいいんですか?」って言う人。私流に言うと「その通りです」になってしまいます。

 そもそも「何かする」って何だろうって思うのです。同様に「何もしない」って何だろう、と。「何かする」ってことは、同時に別の機会に対して「何もしてない」ことになるし、「何もしない」ってのは、その「何もないことをしている」ということにもなります。

 ですので、人は常に「何かしているようで何もしてない」し「何もしてないようで何かしている」ことになります。あるのは常にそこだけ。何かしてようが、何もしてなかろうが、常にそこにあるだけ。人間はその都度都度、「選択」して生きていると言う人がいます。これは100%正しくて、同時に100%間違ってます。

 例えば今このブログを読んでいますよね。そこで「右手を上げる」と「左手を上げる」って選択肢があったとします。「どっちも上げない」や「両方上げる」でもOK。ま、4つの選択肢があるわけですね。ここで左手を上げたとします。これはあなたの自由意思に基づく「選択」の結果なんですが、同時に「左手を上げた」という単純な事実があるだけ。ここには「左手を上げてない」というケースは存在しないわけで、あなたが左手を上げることはすでに決められていたのです。

 こんなこと言うと、「そんなことないでしょ!あの時、右手を上げることだってできたはずです!」と反論することでしょう。残念ながらそんな可能性はゼロです。あの時、左手を上げながら左手を上げないことができないように、あなたは単純に左手を上げただけで、左手を上げないことをしたわけじゃないのです。すべては運命ですから。

 もっと現実的な話をしましょうか。ある高校生が進路を決めるのに芸術大学か医学部かの「選択肢」が目の前にあったとします。その時点でどちらを選ぶかは「自由意思」に委ねられています。結果としてその人は「医学部」を選びお医者さんになりました。しかし後年、こんな思いが出てきました。

 もしもあの時、芸大に行ってたら別の人生があったのでは、、、と。この答えもNOです。あるのは彼が医学部を選択して医者さんになったという事実だけ。もしあるとすれば、今から芸大に入って芸術家を目指すという「自由意思」があるだけ。

 私たちには常に「自由意識」に基づく選択肢を持っているのですが、同時に何を選ぶはすべて決められています。昨日セミナーやったわけですが、全部で40数名の方にご参加頂きました。主催者側からすれば、もっと多い可能性もあったわけですし少ない可能性もあったと思いがち。参加者は参加しなかったという可能性があったと思いがち。でもこれもNOです。昨日のセミナーには決められた人が来ていただけ。決められた人が来なかっただけ。

 めっちゃしょうもない話で恐縮ですが、セミナー後に懇親会やったのですが、20名前後でお店を予約していました。行ってみると18名の席。来たのはちょうど18名。やっぱり決められてる、、、なんて思ったのですが、17名でも19名でも同じことを言ってたでしょう

 私たちの本当のリアリティとは、常にこの瞬間に何を選択するかという自由意思があり、同時にそこに決められた事実があるだけ。これ以外にリアリティなんてものはない。実につまらない人生であると同時に、最高の人生。ただ、私たちの多くは何かを勘違いしながら生きています。

 もしもあの時、別の道に進んでいたら、、、などと言う幻想を抱きながら。言うまでもなく、それは意識(自我)が生み出す虚構でしかありません。しかし悲しいかな、私たちはその「虚構」にこそ現実を重ねようとしてしまいます。一般的に見てよさそうな人生とそうでない人生があるとすれば、それは真のリアリティに生きているか、勝手に生み出した虚構に生きているの違い。でも、虚構に生きることもまた決められてるし、リアリティに生きるのも決められています。

 こんな話を聞いてしまい、なんとか虚構から脱出しようと努力するのもいいのですが、それもまた決められている。結局のところ何をやっても無駄だし、同時に何でもできるわけです。何やってもいいし、何をやらなくてもいい。なぜならすべては決められているのだから。

 てな感じで、今、こうやって何も考えずに書いていますが、多分、正しいこと書いてると思います。読み直していません。なぜなら疲れて眠いから。きっと読み直したら支離滅裂なんだろうなと思いますが、あえて読みなおしません。わかる人にはわかるけど、わからなくても全然構わない。わかろうとしてもわからない。でもわかる時がくるかもしれないしこないかもしれない。そんなのどっちでもいい。

 あ~眠い。それでいてわけわからん。こんな奴が人前でお金頂いてしゃべるのだからなんとか、と思わなくないですが、こんな奴もあんな奴もなく、ただ、ここに私がいて、書いて、しゃべっているだけ。私のしゃべりを聞きに来る人がいてもいいしいなくてもいい。多くてもいいし少なくてもいい。

 要するに真実は故・ジャイアント馬場のあばら骨を洗濯板に使ってたら叱られるかもしれなったと言う数理哲学がここにあるだけ。ありがとうございました。

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by katamich | 2010-03-21 23:39 | ■精神世界
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