宇宙となかよし

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見性 2010.1.12

 昨日は10時にコーチングが終わり、それからすぐに布団に入りました。とにかく前の晩はほとんど寝てなかったし、一日中の坐禅と作務で疲れ果てていました。そして今日、起きるとなぜか動けない。私にとって初めての参禅会はかなりの衝撃だったようです。今日も一日中、頭の中はそのことばかり。滝に入っている時も同様。正直、初めて滝に入った時と同じような衝撃です。きっとこれからも座り続けそうな気がします。

 ところで、昨日のブログで「見性(けんしょう)」という言葉を使いました。「禅」で言われる独特の言葉で、一般には「悟り」とかと同義なんでしょうか。私のブログを読んでいる人の中には、阿部敏郎さんの「いまここ塾」のヘビーな読者さんも少なくないと思いますので、私以上に「見性」に対する理解はある方も多いでしょう。そして私自身も「見性」という言葉自体を知ったのが、阿部さんに出会ってから。

 正直に告白すると、私は自分がやっていること以外のことについてはめちゃくちゃ不勉強です。今回誘われるまで「禅」についての知識などもほとんどありませんでしたし、今もそうです。滝行をやっているので、「禅」よりは「密教」の方がちょっとは詳しいかな、という程度。人にあれこれ講釈立てることなど、ましてや本を出版するなんて、、、やってますが、それとて自分の「体験」の範囲の話に過ぎません。

 で、今日は「見性」についてちょっと語りたいと思っています。どう語るかの着地点もありませんが、昨日のブログに、

「いままでQさんは見性している方だとばかり思っていたのですが違うのでしょうか?Qさんがインドで般若新経を唱えていたときに体験したことは見性体験とはちがうのでしょうか?」

というコメントが付き、正直言うと、昨日のブログを書いている時点から、このコメントのような反応があることを予想していました。そもそも、私の中では「見性した-見性していない」という図式がどうもしっくりきていないのです。

 「見性」とは文字通り「性」を「見」ることであり、そこには誰にでも元々「性」が備わっていることを前提としています。で、その通りなんだと思います。じゃあ、「性」って何?と聞かれると、これがまた難しい。それを見たかどうかの判断も難しい。でも実際に「見性」をしたとされる偉い老師だったら、「公案」と呼ばれる問答によって、その判断ができるとされます。それが「参禅」と言うやつで、昨日まで私が体験してきたものです。

 では、実際に「公案」によって「見性」したと認められたらどうなるのか。なんだか凄い人間に変身しそうな勢いで、とにかく悩みもぶっ飛び、ありとあらゆる願いが叶い、真の幸せを手にすることができる、、、なんて思うことかもしれません。いつだったか流行った「アセンションを意図する」ってのと同じように。

 しかし、言うまでもないでしょうが、決してそんなことはないと思っています。例えば私を禅に誘ってくれたこの方も「見性」したそうなんですが、5~6年前から知っている人であるにも関わらず、いつ会ってもいつも通り。じゃあ阿部敏郎さんはどうかと言うと、大昔の阿部さんのことは知りませんが、私が知る限りはそんなに後光の刺すような荘厳な人でもなく、ミュージシャンっぽいかっこよさはあったにしても、見た感じは普通の人間です。最近、性欲がないとかは言ってましたが、それは単純に年月を重ねられたからであって(失礼)、見性とは関係がなさそうです。

 それから昨日までお世話になった禅の偉い老師様はどうかと言うと、確かにそれなりに服装でいれば凄そうには見えます。ただ、私たちと一緒に作務をしている時は、ジャージ姿で頭にタオルを巻いていて、よく見ないと老師だとはわかりません。昨日の作務中も、後ろからいきなり「あっちにあるよ」と言われて、「葉っぱですか?」と普通に答えながら振り向くと、「うわ、老師やんけ!」って感じでした。

 ですので、一つ言えることは「見性」したからと言って、別物に「変身」するものでもない、ということ。こう言うとガッカリする人もいるかとは思います。せっかく、「見性」を目指して瞑想もしているのに、とか。ですが、それでもなお言えるのは「性」を「見」るのは、非常に重要だと思っています。「性」とは「本当の自分」と言い換えてもいいと思いますが、そうである以上「見性=変身」でないことだけは確かです。なので「見性」したからと言って収入が増えるわけでもなければ、突然、健康になるわけでもありません。

 実際、禅の老師の中には癌で亡くなった方も少なくないと聞きましたし、大元のお釈迦様なんかもそんなに健康でなかったと言われています。確かに長生きはしましたが、最後は腹壊して死にましたし。ですので「見性」と、いわゆる経済的な成功とか、病を克服するとか、社会的地位が上がるとかとは、全然関係のないことのように思います。

 で、昨日のコメントの質問に答えたいと思うのですが、私がインド(ラダック)で般若心経をあげた850巻目辺りに、突然、目の前の景色が変わるような感覚があり、それ以来、何をするにおいても「大丈夫」だと気がついた、てな話を再三してきたと思います。にも書きましたし。実際、この話は本当の話であって、2005年6月から今に至るまで、何度もピンチになってきたにも関わらず、あの時の「体験」を得たことで、いつも「大丈夫」だと思って、実際にその通りになってきました。

 で、自分なりにそれは尊い経験だったし、私の一生を左右するような体験であることには間違いありません。問題はその「体験」をして、「見性」を呼べるのかどうか。もしもそれが「見性」であるならば、老師の「公案」に即答正解できなければおかしいし、できない事実があった以上、あの時のことは「見性」でなかったことを認めなければならない、ということでしょうか。

 私の答えはこれです。

「よけいなお世話」

 失礼な言い方かもしれないことは最初にお詫びしておきます。でもやっぱり「よけいなお世話」なのです。そもそも「あの人は悟った」とか「あの人は見性した」とか言って、人をカテゴライズすることがどうかと思っていたのです。実はこれまで「阿部さんって、悟ったんですよね?」みたいなことを言われることが何度かありました。そんなこと私に聞かれても知らん、ってのが正直な答えなんですが、その時は「そうかもしれませんね~」みたいな返事をしていたと思います。

 でも、私の身近にはどう考えても悟った人がいます。それは誰かと言うと、ちびQです。生後8か月の。彼は悟ってます。と言うか、赤ちゃんはみんながみんなブッダだし、その意味で言うと、誰もがブッダだったわけです。そしてそれは過去形でもなく、今もすべての人がブッダであり、悟っているのです。

 昨日、参禅会から帰って滝に行ったわけですが、滝の中でいきなり「仏」という概念が出てきて、その時に「あ~そうか、オレは仏なんだ」みたいな感覚になりました。この感覚は多分間違ってないと思います。つまり、誰もが「仏」でありブッダなのです。現に「仏性」と言う言葉がある通り、「見性」の「性」とは「仏」を意味するのでは、と今、左脳(論理)で考えている自分がいますが、どうなんでしょう。

 ともかくも言えることは、誰もが誰も悟った存在であるし、その意味で、誰もが「見性」しているのです。ですので「見性した人-見性していない人」なんて二元論的思考は、最も「見性」から遠い思考様式だし、本質からはかけ離れた考え方。だからこそ、「よけいなお世話」なのです。そもそも「知らん!」ってのが正確ですが。

 ただ、これで終わっちゃうとあまりにも不親切。ちょっとだけ二元論的思考(主客に基づく科学的思考)を採用しながら、今回の意味を私なりに解釈したいと思いますが、なぜにいきなり「禅」なのかと言う話。私が参加した禅の会はそれこそ戦前からあるようで、昨日はキャリア30年という在家の方ともお話しました。ですので、私はいつだって「禅」に出会う機会はあったはずです。少なくとも「滝」よりは「禅」の方が一般的で身近です。ネットで「坐禅会」とかで検索すると、それこそ全国各地にあり、やろうと思えばどこだって参加できます。

 なのに、私が出会ったのがまさに今年。2004年に滝に出会って、翌年、会社辞めてインド行って、それから右往左往しながら、セミナーや講演の活動を開始して、昨年末にはその集大成である出版まで実現してしまって。私なりには一つの決着の形を見たのが2009年12月でした。それが、年明けてすぐにいきなり「禅」に入って、何も分からず「公案」を与えられて、いきなり答えなければならないという事態。不親切な方は、確かに「公案」とか言ってたような気がするのですが、私にはそのイメージがわかず、とりあえず行ってみるだけ。そんな状況でした。

 そこで初めて、阿部さんがよく言ってる「見性」って言葉が出てきて、それは「只管打坐(ひたすら座るだけ)」ではなく「公案禅」という形で、ある種の客観性を帯びた「見性」の形があることを知ったのです。それが3日前のこと。そして最初に老師から言われたのが、「何を言っても否定するから」とのこと。つまりは、最初から「そうじゃ!」と言われることなどないことが前提。とにかく座って座って座り通して、まさに「仏」になりきった状態から「公案」に挑戦する。そんな世界があり、なぜか今、その世界に入ろうとしている自分がいる。

 それは見性したとかしていないとか、そう言う二元論的な話でもなければ、見性するしないといった時系列的な話でもありません。今、まさにその機会が私に与えられた。それだけが事実であり、私にとって意味ある事実なのです。そしてもしかすると、あの時、禅に出会ったのは必然だった、、、なんてもっともらしい理屈を並べて説明する時が来るのでしょうが、少なくとも今は関係ありません。

 いろんな流れの中で、なぜか「禅」の方からやってきた。そしてそれに参加した。いろいろ感じている自分がいる。そのことだけが意味のあることなのです。ですが、いつになるかわかりませんが、私も「公案禅」という枠内での「見性」を得る時が来るとは思います。その時になって初めてわかることもあるでしょう。

 とにかく、今、私は新しい流れの中にいて、ワクワクしている。それだけが「事実」であって、それだけが意味のあることなのです。今後どうなるかは、いろいろ考えるワクワクするものではありますが、それはあまり重要ではなく、とにかく今、今、今がすべてであり、一つの流れの中にあることを楽しんでいる私がいる。

 そんなとことです。コメントの答えには全然なってないと思いますが、重要なのは「yes-no」のよる客観的解答を得たり与えたりすることはなく、それら二元論的対立を超えた真実があり、それがまさに「今」なのだと感じています。以上。明日も滝に行きます。ありがとうございました。

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by katamich | 2010-01-12 23:39 | ■精神世界
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