禅の世界に足を踏み入れる 2010.1.9

 今日から7日間の滝行に入りました。今年一番の滝行です。久々の滝と思いきや、前回の滝行を満行してから、まだ2週間しか経ってませんでした。どうりで身体が忘れてないものです。さあ、今年もスタートです。その後、私は先に帰って、午後から坐禅の会に参加します。滝の仲間からのお誘いで。

 お寺(と言うか、民家ですが)に到着すると、皆さん、清掃作業をされていたので、私も加わります。正直、ほとんど事前説明もされずに参加したのですが、これも一つの流れ。素直に参加することに意義があります。その後、起こったことについては、正直まだ専門用語なども知らないし、あまり詳しくブログに書いていいものかもわからないので、その辺は適当に書きますが、とにかく「正座」が痛かった。こんなに長時間も正座したのは、何年振りだろうか。30分以上は普通に正座してました。普通は足が痛くなった時点で足をほどくのですが、それが許されない場。我慢するしかないのですが、そのうち感覚がなくなってきて、足の痛みはなくなりました。しかし、すぐに立てと言われたら困るだろうな、、とか思っていたりして。

 その間、いろんな説明があったり、「老師」と呼ばれる人のお話があったり。間もなく「お茶」を頂くのですが、老師を始め、皆さんのペースに合わせてお茶とお菓子を頂きます。その時、ふと気付いたことがあります。私って、覚えている限り、こんなに美味しくお茶菓子を頂いたことがないな、と。いつも早食いのながら食い。飲み会でもしゃべって飲んで流して。味わうどころじゃありません。そうか、食すってこういうことだったのかな、、、と感じながら頂きました。

 その後、皆さんに従って、座布団を持って禅堂に行き、本で見た通りのように座ります。いわゆる「結跏趺坐」で。間もなくお世話係の方が来られて、初参加の方は別室に連れて行かれます。その時言われたのが、「貴方はもう長いこと座ってらっしゃる?」と。坐禅はもちろん初めてですが、今まで滝行などで、お堂の中で結跏趺坐の姿勢で延々とお経を唱えたりしてたので、座ることはあまり苦ではありません。一応、座り続けることについてはある程度クリアかな。

 その後、「参禅」なるものが始まります。そこでは老師から「公案」と呼ばれる問いを頂き、それに答えるというもの。初参加の方は一応「参禅体験」となります。そこでどんな「公案」を頂くことができたのか。言葉の通りに書くことはできませんが、平たく言えば「本当の自分とは何か?」ってこと。

 この「本当の自分」ついては2008年くらいからのテーマであり、特に2008年10月、つまり私にとって36歳8カ月とお釈迦様が悟りを啓かれた前後に、私にとっての一つの方向性がでたもの。そして昨年末に出した「宇宙となかよし」においても中心的なテーマとして書かせてもらいました。しかし、今日、改めてまた再度「本当の自分」に対する問いを頂いたと言うことは、これもまた何かの意味があるのでしょう。おそらくはもっともっと深めよ・・・と。

 この公案に対して、本番の「参禅」において私がどのように答えるのかわかりませんが、一つだけ言えることは、私がこれまで勉強したこと、理解したこと、書いてきたことなどはすべて捨てる必要があるということ。私のブログはどちらかと言うと、理屈っぽいです。表現プロセスとしては、私が体験したこと、感じたことなどを、「論理」を通して説明すると言った感じでしょうか。
 
 それに対して阿部敏郎さんなどは、感じたことを感じたままに書いている。そこには「論理」で咀嚼するプロセスなどほとんどなく、ありのままに書いている。なので読む方もそのありのままを「感覚」で受け止めるので、言葉にできずとも理解する人が増えているということ。論理(左脳)で説明するのがよいのか、感覚(右脳)で説明するのがよいのか、それは良し悪しの問題ではなく、表現方法の違いに過ぎません。阿部さんのブログでわからなかったことが、私のブログを読んでよく理解できたと言う人も、たくさんいらっしゃいましたし。

 そしてこれからも論理でごちゃごちゃ書く癖は直らないだろうし、直すつもりもありません。そもそも私が阿部さんのような書き方をしても、ウソっぽさが漂い、私のブログの良さが失われるでしょうから。ついでに言うと、例えば「いまここ塾」に影響を受けていることがもろにわかるブログなどを時々見つけることがありますが、正直言って間あり面白くありません。なぜなら、その人の言葉が感じられないから。実は私のブログについても同様、度のブログか指摘はしませんが、検索エンジンで引っかかって、最初、私が書いたのではないかと思われるほど似たような文面のブログが2~3ありました。しかし全然面白くありません。なぜならその人の言葉じゃないし、言葉そのものに力がないから。

 なので私が今回「坐禅」を始めたと言っても、阿部さんのような書き方になることはないだろうし、誰もそれを望んではいないでしょう。しかしながら、いわゆる「表現領域」を広げることは決して損ではないし、私のこれからの体験はまさにそのプロセスだと考えています。

 いずれにせよ、頭で理解したことをそのまま言葉にしても伝わりません。伝わる言葉ってのは、その人の体験なり感覚なりがベースとしてあるものです。その意味で言うと、阿部さんのブログが毎日数千数万の人から読まれているのは、そこに絶対的な「体験」のベースがあるから。どんなにたくさんの本を読んでも、そこに「体験」がなければ伝わりません。

 先日、アルピニストの栗城史多さんの本を紹介しましたが、そこには文章の上手下手を超えた真実の言葉があります。栗城さんは実際に6大陸の最高峰を無酸素単独で登頂したのですから、それに勝る真実はありません。どんなに山のことを知っていても、実際に登った人の話の力には決して勝てないでしょう。

 話を戻しますが、今回、初めて「坐禅」なるものを体験したわけですが、今更と思う人もいるかもしれません。でも、私にとっては初体験ですし、体験しなければわからないことだってあります。それはもちろん一回や二回の体験で語られることではありません。数量の問題かと言えばそうです。一回しか滝に打たれたことがない人よりも、1000回打たれた人の方が、当然、「表現領域」は広いわけです。
 
 たまたまバットを握って素振りしただけの人よりも、何億回と素振りした人の方が、当然、「表現領域」が広いわけだけ、言葉の力があります。変な例えですが、村上春樹が野球のことを語るより、イチローが語った方が耳を傾ける人は多いでしょう(・・・と書いて、村上春樹レベルは別格かもしれないので、そうとは限らないかな)。

 「坐禅」によって何を体験できるのか。そんなこと最初からわかるはずありません。でも、一つの流れの中に突然「坐禅」が入ってきたのだし、一つの目標点である「見性」を目指してみるのも面白いかもしれません。「宇宙となかよし」にも書きましたが、2005年5月にインドのラダックにて、般若心経850巻目辺りに見たあの世界と、もしかしたら見えるかもしれない禅による「見性」と、それらは同じものだったのかどうか。それを知るだけでも、続けてみる価値はありそうです。

 「本当の自分」とは何か。どこまで行っても尽きることのないテーマ。この先何があるのかわかりませんが、改めて頂いたこのテーマについて、初心に戻って探求してみたいと思っています。

 今日の最後に。私は、坐禅や滝行によってしか、「本当の自分」を知ったり、悟ったりすることができないのか、と言われれば決してそうではないと思っています。それこそ、家事を50年続けてきた主婦の中にも、千日回峰行を満行した阿闍梨以上のブッダはたくさんいると思います。それでもなお、坐禅や滝行が何かの役に立つことがあるとすれば、それは一つのことに「没頭」する習慣づけになること。それを「三昧」と呼ぶこともできますが、「本当の自分」とはまさにその「没頭・三昧」の中にあるのでは、、、と感じた次第です。参禅合宿は11日(月)まで続きます。ありがとうございました。


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by katamich | 2010-01-09 23:39 | ■精神世界