宇宙となかよし

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奇跡の久高島! 2009.3.15

 沖縄3日目。セミナーが終わって、今日は一日オフとなります。帰るのは明日。今日は久高島に行きました。セミナー参加者の方にご一緒してもらい、さらにご案内して下さる方を紹介頂きました。11時30分に安座間港行きのフェリーに乗ります。
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 久高島は私にとって2度目。前回もすごくいい天気だったのですが、今日もめちゃめちゃいい天気です。昨日の雨がウソのようです。今日は卒業式だったそうで、島の人は全員参加。ご案内くださる方に連絡していたのですが、なかなかつながらず。卒業式の最中だったそうで。間もなく私の携帯に電話があり、そのご案内くださる方からでした。その場でガイドをお願いし、約一時間後に待ち合わせ。我々は昼食にします。久高島名物「海ぶどう丼」です。海ぶどうのプチプチ感が病みつきになります。もりもりの海ぶどうにお刺身が乗ってます。それに沖縄そばと小鉢が付いて1000円は安い。とれたての海ぶどうはどこで食べるのよりも美味しいです。
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 1時に待ち合わせ。セミナーに参加された方から、絶対にこの方に案内してもらうべき、と言われた女性。最初はどんな方なのか知りませんでしたが。。。シャーマンのような方だとは聞いていました。その方の名は「真栄田苗」さん。後から知ったのですが、多くの著名人との交流もあり、中村文昭さんの本にも紹介されている方でした。苗さんの軽自動車に乗せてもらい、島を案内してもらいます。

「この下は洞窟でね、ウミヘビの産卵があるの・・」

などの話を「ふ~ん」と聞き、間もなく止まった場所は海岸近くの木々の中。そこから説明が始まります。島の話や、神様の話など。そして私は次の話に衝撃を受けてしまったのです。

 神様に出会う方法、と言っては俗っぽいですが、久高島の人は神々の発祥の地であり、常に「祈り」と「感謝」とともに過ごしているそうです。そして祈りにも順番があり、普通の人は自分や家族のことだけを祈りますが、久高島の人は違います。まずは「全世界(五大陸七海)」に祈りを捧げ、次に自分の周辺の人たち、そして最後に自分。これが神様に覚えてもらえる祈り方と言いました。そして自分のことを祈る際も、住む場所や地域を明確にして祈るといいとのこと。よく神社で祈願する時も、自分の住所を言うと良いと聞きますよね。これはつまりこういうこと。

 例えば私個人(石田久二)が国の大臣にアポとっても普通は取り合ってくれません。しかし、福岡県のどこそこの代表ということだと会ってもらえる可能性が高くなります。大会社の社長に会う時も同じ。個人でアポ取るよりは会社の代表としての方が良いに決まっています。それは神様も同じなんだと。その際、日本の福岡県の○○町の○○の石田というように、大きな範囲から言っていくと神様からも見つけられやすいとか。

 それはともかくとして、私が衝撃を受けたのが次の一言です。

「あなたは久高島の人が、あなたのために祈っていることを考えたことがありますか?」

 つまり久高島の人、とりわけ神事に司るノロ(神人)は、先ほど言ったように、まずは世界に祈りを捧げ、そこから周辺へと祈っていきます。恥ずかしながら「はい」とは言えませんでした。どう言うことかと言うと、つまりは、

「誰かが常に自分のために祈っている」

ということ。その事実です。恥ずかしながら考えたことありませんでした。それどころか身近な人でさえ、そのように祈っていることを考えることはありませんでした。おそらく両親は祈ってくれているでしょうが、それさえも意識することはありませんでした。

 「祈り」とは別の言い方をすれば「愛」なんです。つまり誰かが常に私に「愛」を向けてくれているのに、私はそれに気づこうとしない、それを受取ろうとしない、別の言い方をすれば「感謝」しようとしない。そのことに気づかされました。「愛」と「感謝」とは表裏一体。それが「宇宙」だと思っています。

 苗さんからその話を聞いたとき、誰かが「愛」を発信し、それを「感謝」によって受け取る。つまりは「愛」と「感謝」が一本の線でつながった時、なんだか凄いエネルギーが出ていくのとを、即座にイメージしてしまいました。そしてもし、誰かの「愛」を「感謝」によって受け取ったら、今度は自分から誰かに「愛」を発信する。このように「祈り」によって、誰もが「愛」と「感謝」を生活の一部としていれば、もっともっといい世の中になるなあ、とその時思いました。
 
 ちなみに苗さんは、ノロと言って神事を司る方であり、沖縄の言い方で神人(かみんちゅう)と言います。民間のユタとはちょっと違い、どちらかと言うと、シャーマン的な存在はユタになるそうです。苗さんは島に残る数少ないノロとして、真実を語り継いでいます。
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 苗さんと一緒にいて面白かったのが、常に動物たちと対話しているということ。久高島にはそれこそ多数の鳥や動物たちがいるのですが、苗さんが言うのは、みんな顔も声も違うとか。当たり前の話ではありますが、私が鳥を見るとき「鳥」としか思いません。しかし本当は、あの鳥は「あの鳥」であって「鳥」という抽象的な存在ではないんです。言うなれば、私たち人間と同じように一羽一羽に個性があるのです。そう考えると、道端の蟻でさえも、「蟻」という抽象的な存在はなく、「その蟻」なんですね。

 英語では「蟻」のことを「ant」と言いますが、我々が「蟻」と言う際、「an ant」と「the ant」と二通りの言い方があります。言うまでもなく「an ant」は不特定の蟻であり、「the ant」は特定の蟻を指します。そうやって「蟻」の属性を区別するのですが、日本語ではわざわざ「その」や「あの」のような指示代名詞を付けなければ特定を表すことはできません。私はこう解釈しています。

 日本(日本語)において、そもそも自然界には特定のものはなく、「あの蟻」も「その蟻」も個体は違えども「共存」という意味で言い方を変える必要はない、と言う考えです。つまり人間にとっても、「私はあなた」であり「あなたは私」のように人類は一つ(oneness)であるという考えになります。さらに言うと、「私は自然」であり「自然は私」のように、「私と自然」が一つであり、切り離された存在ではないということ。

 つまり逆説的ながら、「蟻」を自然の一部としてとらえるとともに、わざわざ定冠詞によって特定せずとも、すでにすべての個体が特定の掛け替えのない存在だと、無意識的にも認識しているからでは、と思います。苗さんは、もちろん鳥の一匹一匹に名前を付けるようなことはしていないのでしょうが、鳴き声を聞いただけで、どの鳥かわかるんだそうです。

 つまり人間も動物も、一人ひとり掛け替えのない存在でありながら、すべては一つという両義的な存在であるため、本来、区別や差別が生じるものではないのです。そしてそのことを象徴するかのように、久高島には「所有」という概念がありませんでした。そもそも島の憲章により、土地はすべて皆のもの。土地の私的所有が禁じられているのです。それゆえに島の土地が外部の資本に渡ることもなく、ずっと変わることなく保たれているわけです。

 我々が案内してもらっている時、畑から大きな大根を持ったおばちゃんが目につきました。苗さんが「大きな大根だね~」と言うと、「持っていく?」と言い、その辺の汚い袋に大根を二本入れて手渡すのです。当然、お金は払いません。これが普通なのです。久高島の土地には使用権はあれど所有権はないため、そこでできた作物は基本的に島のもの。みんなのものなのです。まるで縄文時代のようです。

それから、苗さんから言われた、もう一つの衝撃的な言葉。それは、

「神は常に自然を通じて我々にメッセージを発している」

ということ。久高島には何箇所かメッセンジャー的な場所があるそうです。その一つがとある海岸。
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 苗さんがそこに立つと、魚やイカなどが集まって来て、数字やアルファベットや図形で形を作るんだそうです。例えばこんな話がありました。ある御一行が苗さんのガイドで久高島を見て回った時、その海岸を見降ろすと、4匹のイカが泳いできました。その直後、一匹の黒鯛がやってきてぐるぐると回り始めたのです。そこで苗さんはこう言いました。

「太鼓かな」

と。つまり黒鯛が回るのは太鼓の形を表し、4匹のイカは太鼓の足を表している、というのです。その「太鼓かな」と言った瞬間、御一行は泣き出したそうです。なんとその御一行は太鼓の職人であり、数年前に久高島に太鼓を寄贈したことがあるとか。苗さんは、もちろんそんなことは知りません。つまり久高島の神様は彼ら御一行に感謝と歓迎の意を表していたのです。そのことを知った太鼓職人御一行は涙をこらえることはできませんでした。

 ただ、そのことは決して特別なことではないのです。それはいいことであれ、悪いことであれ、自然は何らかの形で常にメッセージを発しているのです。昔の人は、そのことに敏感でしたが、現代人はそのセンサーを失いかけています。例えば、今、外で鳥が鳴いているのも、何かを言いたくて泣いているのです。風が強く吹くのもそう。波が立つのもそう。もちろん地震や台風もそう。大きなことであれ、小さなことであれ、すべてはメッセージなのです。そのことに気づいたとき、私は涙が出そうになりました。いや、実は周囲に知られないよう、涙を流していたのです。
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 間もなく我々は島の最先端のカペール岬に行きました。そこも聖地であり、月の10日間、そして法事や神事の前後は入ってはいけない場所です。私は運良く、今回も前回も入ることができました。そして海岸に近づくと、突然、波が私にかかってきました。苗さんが「歓迎されてるね」と言いました。凄くうれしかったです。

 カペール岬ではある儀式を体験しました。岬のある岩場にて、穴のあいた岩をくぐって、その中で10数えるように言われます。その後、海水で手を洗って拭かずに両手を天にかざします。それは何を意味するかと言うと、穴のあいた岩が「産道」であり、その中が「子宮」、そこで「十月十日」を数えてから、海水つまり「羊水」で清めて生まれ変わるのです。
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 苗さんが言うには、

「あなたは今から両親の子から、神の子へと生まれ変わりました」

と。ああ、そうだったのか。私の今回の旅のテーマは「自分を超える」でした。会社を辞めてから4年。これまでなんとなく成り行き任せでなんとかなってはきました。しかし、今年に入って、それだけでは限界があることに気づきます。いろんな戦略を考えることもしました。しかし、どんなに頭をひねっても、「自分」という大きな壁が立ちはだかります。私は今までの「自分を超える」ことを意識し始めたのです。

 そして今回の沖縄セミナーでの「旅」のテーマはまさにそれでした。そして昨日のセミナーで、なんとなく「脱皮」したことを感じていはいましたが、その象徴的な儀式を今迎えたのです。「両親の子」から「神の子」へと生まれ変わる。そんな折、私は数か月後、「親の子」から「子の親」という新たなアイデンティティを授かることになっています。数々のシンボリックな出来事が、一本のライン上にすべて配置されている。そんなことを感じさせる「旅」となっています。

 4時過ぎに苗さん、そして同行して頂いた方とお別れしたのですが、私は那覇に帰らず、この島にもう一泊したくなりました。そして一人、自分を見つめていたかったのです。宿にチェックインし、しばらく横になって本を読みます。外が暗くなる前に、夕食を食べに行きます。港の近くの食堂で。野菜炒め定食に海ぶどうを付けてもらい、もりもりプチプチと食べる私がいました。
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 そして寝るオレ。ありがとうございました。
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ありがとうございました!
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by katamich | 2009-03-15 23:13 | ■旅・ツアー
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